十五代:受藏拓也(元西関脇・浅雄山、東京)
2000年にBGM3へ移行することに伴い、元親方(八代)である金鹿が親方へ復帰した。移行に際し、受雙・御殿・天馬の3部屋の分家が行われた一方、力士数の増員を行い受藏部屋本体の力士数は30人で維持された。また、十二代親方・浅雄山の出身地である東京都調布市へ部屋を移転した。
2000年初場所では移行に伴う番付調整の結果として、十三代の実子である鹿王が新小結に昇進した。また、この場所では八代親方時代の直弟子である氷鹿が躍進し、春場所で新小結に昇進、3移行後の新生・受藏部屋では初の新三役となった。夏場所では更に巨蟹山も新小結となったため、3人の三役力士を擁した。秋場所、氷鹿が大関に昇進、創設59年余で漸く大関誕生となった。
2001年春場所では鹿王が新関脇昇進に合わせ2代目・金鹿を襲名した。
2000年初場所では移行に伴う番付調整の結果として、十三代の実子である鹿王が新小結に昇進した。また、この場所では八代親方時代の直弟子である氷鹿が躍進し、春場所で新小結に昇進、3移行後の新生・受藏部屋では初の新三役となった。夏場所では更に巨蟹山も新小結となったため、3人の三役力士を擁した。秋場所、氷鹿が大関に昇進、創設59年余で漸く大関誕生となった。
2001年春場所では鹿王が新関脇昇進に合わせ2代目・金鹿を襲名した。
2003年春場所で浅雄海が新関脇昇進に合わせ2代目・浅雄山を襲名した。
初代:受藏風見 1941年初〜1951年秋(65場所)
二代:受藏晋平(元東前頭筆頭・受冠、東京) 1951年秋〜1963年春(70場所)
三代:受藏勘吉(元東前頭十一枚目・受金、石川) 1963年夏〜1968年初(29場所)
四代:受藏隆貴(元西関脇・大冠、東京) 1968年春〜1974年秋(40場所)
五代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 1974年九〜1978年名(23場所)
六代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 1978年秋〜1982年夏(23場所)
七代:受藏海次郎(元東関脇2・大冠川、神奈川) 1982年名〜1986年夏(24場所)
八代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 1986年名〜1988年初(10場所)
九代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 1988年春〜1990年名(15場所)
十代:受藏佑(元東前頭筆頭・浪冠、青森) 1990年秋〜1992年九(14場所)
十一代:受藏柏虎(元西小結・葡萄馬、大阪) 1993年初〜1994年夏(9場所)
十二代:受藏拓也(元西関脇・浅雄山、東京) 1994年名〜1999年九(27場所)
十三代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 2000年初〜2001年名(10場所)
十四代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 2001年秋〜2002年秋(7場所)
二代:受藏晋平(元東前頭筆頭・受冠、東京) 1951年秋〜1963年春(70場所)
三代:受藏勘吉(元東前頭十一枚目・受金、石川) 1963年夏〜1968年初(29場所)
四代:受藏隆貴(元西関脇・大冠、東京) 1968年春〜1974年秋(40場所)
五代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 1974年九〜1978年名(23場所)
六代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 1978年秋〜1982年夏(23場所)
七代:受藏海次郎(元東関脇2・大冠川、神奈川) 1982年名〜1986年夏(24場所)
八代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 1986年名〜1988年初(10場所)
九代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 1988年春〜1990年名(15場所)
十代:受藏佑(元東前頭筆頭・浪冠、青森) 1990年秋〜1992年九(14場所)
十一代:受藏柏虎(元西小結・葡萄馬、大阪) 1993年初〜1994年夏(9場所)
十二代:受藏拓也(元西関脇・浅雄山、東京) 1994年名〜1999年九(27場所)
十三代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 2000年初〜2001年名(10場所)
十四代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 2001年秋〜2002年秋(7場所)
所在地 神奈川県川崎市→神奈川県大和市→神奈川県川崎市→神奈川県川崎市・新潟県佐渡市→神奈川県川崎市
概要
受藏部屋とは、「大相撲再現ゲームBGM2」所属の相撲部屋である。
16年1月、外部出身者である初代受藏により創設され、彼の出身地である神奈川県川崎市に部屋を構えた。初代受藏は関脇・受龍、受具、受印、受鯨、小結・受越など33人の関取を育てた。
26年9月に初代受藏が停年を迎えるため、部屋付きの二代受雙(元幕内・受冠)が名跡を交換する形で二代受藏を襲名して部屋を継承した。二代受藏は先代からの弟子である小結・受膽や直弟子の関脇・大冠、冠力、小結・琉冠といった関取を育てた。
36年5月場所、部屋の力士として初めて浪冠が幕内最高優勝を果たした。
38年3月場所いっぱいで二代受藏が協会を退職し、部屋付きの四代受雙(元幕内・受金)が三代受藏を襲名して部屋を継承した。同時に部屋の所在も川崎市内で移転した。三代受藏は先代からの弟子である関脇・錦冠、小結・米冠といった関取を育てた。
43年1月場所後、部屋付き親方の不祥事の引責で三代受藏は親方の座を降り、部屋付きの五代受雙(元関脇・大冠)が四代受藏を襲名して部屋を継承した。四代受藏は先先代からの弟子である小結・冠湖や先代からの弟子である関脇・金鸛鵲、金朱鷺、小結・金熊、直弟子の小結・大泥冠といった関取を育てた。
46年9月場所限りで地権者であった元三代受藏が協会を退職し、これに伴い部屋の所在は神奈川県大和市へ移転した。しかし、川崎市出身の大冠川が十両に昇進したことから招致があり、49年9月場所後に川崎市内の別の場所に再移転することが決まった。
49年9月場所限りで四代受藏は親方の座を降り、部屋付きの七代受雙(元幕内・冠馬)が禅譲を受けて五代受藏となった。五代受藏は先代からの弟子である関脇・大冠川、大開国といった関取を育てた。
53年7月場所を最後に五代受藏は親方の座を降り、部屋付きの八代受雙(元関脇・金朱鷺)が六代受藏として親方の地位を引き継いだ。
54年1月場所付で部屋付きの三代馬蹄(元幕内・冠馬)が神奈川県大和市に馬蹄部屋を、三代御殿(元幕内・殿冠)が埼玉県川越市に御殿部屋を、それぞれ設立することとなり、さらに56年1月場所からは四代大弐(元関脇・大冠)が神奈川県大和市に大弐部屋を、57年1月場所からは四代芫花(元幕内・肝膽)が神奈川県横須賀市に芫花部屋を、それぞれ設立した(詳細は後述)。
六代受藏は寺子屋方式として座学の導入に努めたほか、部屋の2拠点化を進め、56年1月以降は新潟・佐渡との2極体制に移行した。親方としては先代から引き継いだ関脇・2代受對らを育てた。
57年5月場所後に六代受藏は部屋付きの十代受雙(元関脇・大冠川)と名跡を交換し、部屋を譲った。七代受藏は受藏部屋創設後初の神奈川県出身の親方となった。先代から引き継いだ関脇・朱鷺巨燈らを育てた。
61年5月場所後に七代受藏は部屋付きの十二代受雙(元幕内・金鹿)と名跡を交換し、部屋を譲った。八代受藏は部屋の最大勢力である大阪勢から初の親方となった。改革派の親方として知られ、年寄名跡継承の基準明確化や大受藏部屋構想の推進に取り組んだ。
63年1月場所後に八代受藏は部屋付きの十三代受雙(元関脇・金朱鷺)と名跡を交換し、部屋を譲った。九代受藏は六代の再任で、親方の再任は初の事例。受藏一門三部屋体制の確立に尽力したが、分家部屋の継承問題を巡る混乱の責任を取る形で退任した。
65年7月場所後に当時分家の総緒部屋付きであった初代水路(元幕内・浪冠)が、先代親方の退任に伴い急遽十代受藏を継承した。53歳という高齢での異例の親方就任となり、受雙の名跡を経ずに親方に就任するのも初の事例であった。
67年11月場所限りで十代受藏は退任し、十八代受雙(元小結・葡萄馬)が十一代受藏として部屋を継承した。十一代受藏の元で、68年いっぱいで分家部屋制度を廃止することが決定した。
なお、分家部屋時代に、3代馬蹄(元幕内・冠馬)が関脇・馬児、小結・葡萄馬を、4代御殿(元幕内・時大殿)が小結・時洪殿を、5代御殿(元小結・大泥冠)が関脇・超魔神を、9代馬蹄(元幕内・冠馬)が関脇・大藤殿、小結・波祖奈を、それぞれ三役に育てている。
69年6月付で十一代受藏は退任し、部屋付きの初代五色(元関脇・浅雄山)が十二代受藏として部屋を継承した。十二代受藏は国研部屋からの移籍であり、受藏部屋出身以外の親方は初代以来となる。十二代受藏は関脇・大天馬、直弟子の小結・高雄山などの関取を育てた。また、十二代就任に伴い、御殿部屋の統合および年寄名跡の整理が行われた。部屋所在地も川崎市内で移転した。
16年1月、外部出身者である初代受藏により創設され、彼の出身地である神奈川県川崎市に部屋を構えた。初代受藏は関脇・受龍、受具、受印、受鯨、小結・受越など33人の関取を育てた。
26年9月に初代受藏が停年を迎えるため、部屋付きの二代受雙(元幕内・受冠)が名跡を交換する形で二代受藏を襲名して部屋を継承した。二代受藏は先代からの弟子である小結・受膽や直弟子の関脇・大冠、冠力、小結・琉冠といった関取を育てた。
36年5月場所、部屋の力士として初めて浪冠が幕内最高優勝を果たした。
38年3月場所いっぱいで二代受藏が協会を退職し、部屋付きの四代受雙(元幕内・受金)が三代受藏を襲名して部屋を継承した。同時に部屋の所在も川崎市内で移転した。三代受藏は先代からの弟子である関脇・錦冠、小結・米冠といった関取を育てた。
43年1月場所後、部屋付き親方の不祥事の引責で三代受藏は親方の座を降り、部屋付きの五代受雙(元関脇・大冠)が四代受藏を襲名して部屋を継承した。四代受藏は先先代からの弟子である小結・冠湖や先代からの弟子である関脇・金鸛鵲、金朱鷺、小結・金熊、直弟子の小結・大泥冠といった関取を育てた。
46年9月場所限りで地権者であった元三代受藏が協会を退職し、これに伴い部屋の所在は神奈川県大和市へ移転した。しかし、川崎市出身の大冠川が十両に昇進したことから招致があり、49年9月場所後に川崎市内の別の場所に再移転することが決まった。
49年9月場所限りで四代受藏は親方の座を降り、部屋付きの七代受雙(元幕内・冠馬)が禅譲を受けて五代受藏となった。五代受藏は先代からの弟子である関脇・大冠川、大開国といった関取を育てた。
53年7月場所を最後に五代受藏は親方の座を降り、部屋付きの八代受雙(元関脇・金朱鷺)が六代受藏として親方の地位を引き継いだ。
54年1月場所付で部屋付きの三代馬蹄(元幕内・冠馬)が神奈川県大和市に馬蹄部屋を、三代御殿(元幕内・殿冠)が埼玉県川越市に御殿部屋を、それぞれ設立することとなり、さらに56年1月場所からは四代大弐(元関脇・大冠)が神奈川県大和市に大弐部屋を、57年1月場所からは四代芫花(元幕内・肝膽)が神奈川県横須賀市に芫花部屋を、それぞれ設立した(詳細は後述)。
六代受藏は寺子屋方式として座学の導入に努めたほか、部屋の2拠点化を進め、56年1月以降は新潟・佐渡との2極体制に移行した。親方としては先代から引き継いだ関脇・2代受對らを育てた。
57年5月場所後に六代受藏は部屋付きの十代受雙(元関脇・大冠川)と名跡を交換し、部屋を譲った。七代受藏は受藏部屋創設後初の神奈川県出身の親方となった。先代から引き継いだ関脇・朱鷺巨燈らを育てた。
61年5月場所後に七代受藏は部屋付きの十二代受雙(元幕内・金鹿)と名跡を交換し、部屋を譲った。八代受藏は部屋の最大勢力である大阪勢から初の親方となった。改革派の親方として知られ、年寄名跡継承の基準明確化や大受藏部屋構想の推進に取り組んだ。
63年1月場所後に八代受藏は部屋付きの十三代受雙(元関脇・金朱鷺)と名跡を交換し、部屋を譲った。九代受藏は六代の再任で、親方の再任は初の事例。受藏一門三部屋体制の確立に尽力したが、分家部屋の継承問題を巡る混乱の責任を取る形で退任した。
65年7月場所後に当時分家の総緒部屋付きであった初代水路(元幕内・浪冠)が、先代親方の退任に伴い急遽十代受藏を継承した。53歳という高齢での異例の親方就任となり、受雙の名跡を経ずに親方に就任するのも初の事例であった。
67年11月場所限りで十代受藏は退任し、十八代受雙(元小結・葡萄馬)が十一代受藏として部屋を継承した。十一代受藏の元で、68年いっぱいで分家部屋制度を廃止することが決定した。
なお、分家部屋時代に、3代馬蹄(元幕内・冠馬)が関脇・馬児、小結・葡萄馬を、4代御殿(元幕内・時大殿)が小結・時洪殿を、5代御殿(元小結・大泥冠)が関脇・超魔神を、9代馬蹄(元幕内・冠馬)が関脇・大藤殿、小結・波祖奈を、それぞれ三役に育てている。
69年6月付で十一代受藏は退任し、部屋付きの初代五色(元関脇・浅雄山)が十二代受藏として部屋を継承した。十二代受藏は国研部屋からの移籍であり、受藏部屋出身以外の親方は初代以来となる。十二代受藏は関脇・大天馬、直弟子の小結・高雄山などの関取を育てた。また、十二代就任に伴い、御殿部屋の統合および年寄名跡の整理が行われた。部屋所在地も川崎市内で移転した。
親方
初代:受藏風見 16初〜26秋(65場所)
二代:受藏晋平(元東前頭筆頭・受冠、東京) 26秋〜38春(70場所)
三代:受藏勘吉(元東前頭十一枚目・受金、石川) 38夏〜43初(29場所)
四代:受藏隆貴(元西関脇・大冠、東京) 43春〜49秋(40場所)
五代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 49九〜53名(23場所)
六代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 53秋〜57夏(23場所)
七代:受藏海次郎(元東関脇2・大冠川、神奈川) 57名〜61夏(24場所)
八代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 61名〜63初(10場所)
九代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 63春〜65名(15場所)
十代:受藏佑(元東前頭筆頭・浪冠、青森) 65秋〜67九(14場所)
十一代:受藏柏虎(元西小結・葡萄馬、大阪) 68初〜69夏(9場所)
十二代:受藏拓也(元西関脇・浅雄山、東京) 69名〜
二代:受藏晋平(元東前頭筆頭・受冠、東京) 26秋〜38春(70場所)
三代:受藏勘吉(元東前頭十一枚目・受金、石川) 38夏〜43初(29場所)
四代:受藏隆貴(元西関脇・大冠、東京) 43春〜49秋(40場所)
五代:受藏虎徹(元西前頭筆頭・冠馬、福島) 49九〜53名(23場所)
六代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 53秋〜57夏(23場所)
七代:受藏海次郎(元東関脇2・大冠川、神奈川) 57名〜61夏(24場所)
八代:受藏浄瑠璃(元東前頭三枚目・金鹿、大阪) 61名〜63初(10場所)
九代:受藏佐吉(元西関脇・金朱鷺、新潟) 63春〜65名(15場所)
十代:受藏佑(元東前頭筆頭・浪冠、青森) 65秋〜67九(14場所)
十一代:受藏柏虎(元西小結・葡萄馬、大阪) 68初〜69夏(9場所)
十二代:受藏拓也(元西関脇・浅雄山、東京) 69名〜
部屋付き年寄
歴史
原論
時代の特色
受藏部屋の各時代を比較した時、おおむね3つの類型を指摘することが出来る。すなわち、英傑期、戦国期、低迷期である。
英傑期とは、特定の力士が他の力士に比して極端に高い実力を有し、部屋全体をリードしている時期である。中心となる力士以外にも、2名前後の安定した実力を有する幕内力士が恒常的に存在している場合が多いなど、1名のみの力ではなく部屋全体の実力が引き上げられている傾向が見られることがその特色であり、部屋運営の上では最も好ましい状態であると評価できる。受龍を中心とする第1期、海冠・受膽・大冠が順に中心を担った第4期、金朱鷺を中心とする第9期がその好例といえる。戦略立案においては、当然部屋を率いるべき力士を中心に立案すべきであるが、同部屋対戦の多寡は有利不利に直結することから、同時に他の幕内力士の戦略も安定したものとする必要がある。このためバランス感覚が問われる部分はあるが、リードする力士の安定感が何より大切であり、これが欠けると戦国期に移行する場合がある。
戦国期とは、幕内上位の力士を継続的に輩出しながらも、安定して強い力士が存在せず、部屋をリードする力士が概ね1年以内で次々と交代していく時期を指す。多彩な力士が活躍することが多く、一気に三役に上がるような有望力士や、関取経験の豊富な平幕のベテランが部屋の中心となることが比較的多いが、上位に定着する力士は稀であり総じて個性派の域を出ない。典型的な展開としては、有望力士が一気に力をつけ平幕上位や三役に上がるが、定着できずすぐに番付を大きく下げてしまい、その間に中堅クラスの平幕力士やベテランの平幕力士が部屋を支え、次の有望力士の台頭を待って部屋頭の地位を譲る。幕内のとりわけ中位以下や十両で長期にわたり安定する力士も2名程度存在することがあるが、全体的には幕内に定着できない安定感の欠如した力士が大多数を占め、三役経験者も同様である。育成論としては、一見関取数が多く活況を呈するが、下位からの有望力士・中堅クラス力士候補の供給が継続していることが前提条件であり、既存の関取衆の実力は総じて安定していないため、関取の育成に苦戦すれば途端に立ち行かなくなり、望ましくは無い。部屋の中心となるべき力士の育成に失敗し、新たな英傑期への移行が出来なかった時期として消極的な評価を与えることも可能である。ただし、育成の状況によっては中堅クラス力士の一部が幕内で長期的に安定する場合があるが、リーディングな力士との調整が必要がなく、のびのびと育成に注力できることが要因の1つではないかと考えられる。こうした力士は一方で概してポイントが少なく年齢帯も古参以上であることが多いため、戦略の失敗が容易に幕下陥落や引退に直結しうるので、育成論の観点からは不安が残る。
低迷期とは、特段強い力士が居なかったり、戦略的に迷走している時期である。関取不在につながる深刻な状況と評価することもできる。幕内下位以下の力士は1度戦略に失敗することですぐに幕下まで落ちるケースも稀ではないため、本来的には幕内の中位以上に定着している力士が複数名いるのが望ましい。そのため、部屋運営の観点から低迷期は最も厳しい時期と評価できる。
英傑期とは、特定の力士が他の力士に比して極端に高い実力を有し、部屋全体をリードしている時期である。中心となる力士以外にも、2名前後の安定した実力を有する幕内力士が恒常的に存在している場合が多いなど、1名のみの力ではなく部屋全体の実力が引き上げられている傾向が見られることがその特色であり、部屋運営の上では最も好ましい状態であると評価できる。受龍を中心とする第1期、海冠・受膽・大冠が順に中心を担った第4期、金朱鷺を中心とする第9期がその好例といえる。戦略立案においては、当然部屋を率いるべき力士を中心に立案すべきであるが、同部屋対戦の多寡は有利不利に直結することから、同時に他の幕内力士の戦略も安定したものとする必要がある。このためバランス感覚が問われる部分はあるが、リードする力士の安定感が何より大切であり、これが欠けると戦国期に移行する場合がある。
戦国期とは、幕内上位の力士を継続的に輩出しながらも、安定して強い力士が存在せず、部屋をリードする力士が概ね1年以内で次々と交代していく時期を指す。多彩な力士が活躍することが多く、一気に三役に上がるような有望力士や、関取経験の豊富な平幕のベテランが部屋の中心となることが比較的多いが、上位に定着する力士は稀であり総じて個性派の域を出ない。典型的な展開としては、有望力士が一気に力をつけ平幕上位や三役に上がるが、定着できずすぐに番付を大きく下げてしまい、その間に中堅クラスの平幕力士やベテランの平幕力士が部屋を支え、次の有望力士の台頭を待って部屋頭の地位を譲る。幕内のとりわけ中位以下や十両で長期にわたり安定する力士も2名程度存在することがあるが、全体的には幕内に定着できない安定感の欠如した力士が大多数を占め、三役経験者も同様である。育成論としては、一見関取数が多く活況を呈するが、下位からの有望力士・中堅クラス力士候補の供給が継続していることが前提条件であり、既存の関取衆の実力は総じて安定していないため、関取の育成に苦戦すれば途端に立ち行かなくなり、望ましくは無い。部屋の中心となるべき力士の育成に失敗し、新たな英傑期への移行が出来なかった時期として消極的な評価を与えることも可能である。ただし、育成の状況によっては中堅クラス力士の一部が幕内で長期的に安定する場合があるが、リーディングな力士との調整が必要がなく、のびのびと育成に注力できることが要因の1つではないかと考えられる。こうした力士は一方で概してポイントが少なく年齢帯も古参以上であることが多いため、戦略の失敗が容易に幕下陥落や引退に直結しうるので、育成論の観点からは不安が残る。
低迷期とは、特段強い力士が居なかったり、戦略的に迷走している時期である。関取不在につながる深刻な状況と評価することもできる。幕内下位以下の力士は1度戦略に失敗することですぐに幕下まで落ちるケースも稀ではないため、本来的には幕内の中位以上に定着している力士が複数名いるのが望ましい。そのため、部屋運営の観点から低迷期は最も厳しい時期と評価できる。
時代区分の方法とその弊害
著しく早熟型の力士と著しく晩成型の力士では、出世の時期は大いに相前後することも当然であるが、部屋の育成方針により歴代力士にはこのいずれのケースも多数見られる。特に、時代を代表するような力士のあいだでも、その入門の時期と全盛期とが相前後することは珍しいことではない。入門時期別の区分というのも、当然に可能性が無いものではないが、部屋の実情を踏まえると、時代別の区分にならざるを得ないであろう。こうした時代別の分析方法をとる場合、分析の主体は母集団ではなく、歴史の舞台の中心に立つ群像を追っていくこととなる。
こうした分析の方法をとる場合、それはとりわけ歴史の舞台の中心、つまりその当時において最も番付の高い力士とその周辺に位置する一群についての歴史に他ならない。受藏部屋の場合、それは概して幕内の、特に上位から中位にかけてである。とすれば、その当然の帰結として、十両以下における時代の変遷は基本的に捨象される対象となると言える。
一方で、十両以下においても歴史に残る活躍をした力士や、記録には残らないが部屋の歴史に多大な影響を与えた力士は複数存在する。そうした力士について、上記のマクロ的な歴史分析の手法の中で位置付けを見出すのは困難ではあるが、それはつまりそれらの歴史的意義を過小にしか評価できない分析の手法ということである。実際、十両以下を主戦場とした力士が大局的な歴史に影響を及ぼすことは稀であり、その顕著な例外として例えば受王、浪冠、大冠、受凌などが存在するが、それとして歴史に与える影響は十両における役割とは違った方法においてである。一方で、部屋の運営に当たっての態度としては、もちろん幕内が大きな割合を占めるのは確かであるが、それと並んで特に十両の戦略論には腐心する部分もあり、実態としての部屋の歴史を分析するうえでは欠かせない視座であると言える。
本論においては未だ確かな位置付けをすることは困難との考えからこうした力士については言及することは基本的に避けることとするが、一方でこうした力士についての歴史的分析も不可欠との考えから、その試みとして構想的に十両史を末尾に付すこととしたい。ただし、十両史という観点のみでは、十両は幕内との中間的な位置にありその存在は相対的なものであるから、どうしてもその記述は断続的・断片的なものとなる。
こうした分析の方法をとる場合、それはとりわけ歴史の舞台の中心、つまりその当時において最も番付の高い力士とその周辺に位置する一群についての歴史に他ならない。受藏部屋の場合、それは概して幕内の、特に上位から中位にかけてである。とすれば、その当然の帰結として、十両以下における時代の変遷は基本的に捨象される対象となると言える。
一方で、十両以下においても歴史に残る活躍をした力士や、記録には残らないが部屋の歴史に多大な影響を与えた力士は複数存在する。そうした力士について、上記のマクロ的な歴史分析の手法の中で位置付けを見出すのは困難ではあるが、それはつまりそれらの歴史的意義を過小にしか評価できない分析の手法ということである。実際、十両以下を主戦場とした力士が大局的な歴史に影響を及ぼすことは稀であり、その顕著な例外として例えば受王、浪冠、大冠、受凌などが存在するが、それとして歴史に与える影響は十両における役割とは違った方法においてである。一方で、部屋の運営に当たっての態度としては、もちろん幕内が大きな割合を占めるのは確かであるが、それと並んで特に十両の戦略論には腐心する部分もあり、実態としての部屋の歴史を分析するうえでは欠かせない視座であると言える。
本論においては未だ確かな位置付けをすることは困難との考えからこうした力士については言及することは基本的に避けることとするが、一方でこうした力士についての歴史的分析も不可欠との考えから、その試みとして構想的に十両史を末尾に付すこととしたい。ただし、十両史という観点のみでは、十両は幕内との中間的な位置にありその存在は相対的なものであるから、どうしてもその記述は断続的・断片的なものとなる。
本論
概説
本論においては各時代区分について順を追う形で、その特色や経過、歴史的意義を概説していくこととする。
本論における時代区分については、以下の通りとする。
本論における時代区分については、以下の通りとする。
- 第0期 16年
- 第1期 17~21年
- 第2期 22~26年
- 第3期 27~29年
- 第4期 30~34年
- 第5期 35~36年
- 第6期 37~40年
- 第7期 41~42年
- 第8期 43~46年
- 第9期 47~51年
- 第10期 52~53年
- 第11期 54~56年
- 第12期 57年
- 第13期 58~62年
- 第14期 63~65年
- 第15期 66年~
第0期
16年に部屋が設立されて当初の時期のいわば草創期である。この時期は、当然ながら幕下以下が主戦場であり、したがって他の時代と同一の尺度で分析することは難しい部分がある。
設立当初からすぐに頭角を現した力士は受安や受寧、受心であった。やがてこの中から抜け出した受安と、序二段で全勝した受冠が台頭し、この2人が競い合って独走していく形となった。やがてここに受山や受河といった力士が加わり、混戦模様となっていく。
この時期は未だ草創期の不安定なだけあってその後の時代と連続するような力士の活躍というのは少ない。一方で、受安と受冠はこの時代の中で一歩抜きんでた存在であり、その後の十両昇進も早かった。その意味では、草創期のリーディングな存在として評価することもできる。
当初、すぐに頭角を現したのは、親方の一番弟子でもある受安であった。一方、同期の中で最も入門の遅かった受冠は、体格も劣り目立たない存在であった。しかし、序二段に上がってからは受冠が先に全勝し優勝決定戦に進出、番付のうえでも受安を追い抜く。続く場所では両者が揃って全勝とし序二段優勝決定戦で相見えるが、ここでは受冠が制したが、これが部屋初の各段優勝となった。三段目では逆に、受冠が星を落とすなかで受安が全勝とし優勝を決め、再び受安が番付を追い抜くこととなる。同時に、この2人のみが部屋で最初の幕下力士となった。一方、このとき同時に序二段優勝を決めていた受山が、1場所遅れて幕下に上がるとすぐにこの先頭争いに加わっていくことになる。
設立当初からすぐに頭角を現した力士は受安や受寧、受心であった。やがてこの中から抜け出した受安と、序二段で全勝した受冠が台頭し、この2人が競い合って独走していく形となった。やがてここに受山や受河といった力士が加わり、混戦模様となっていく。
この時期は未だ草創期の不安定なだけあってその後の時代と連続するような力士の活躍というのは少ない。一方で、受安と受冠はこの時代の中で一歩抜きんでた存在であり、その後の十両昇進も早かった。その意味では、草創期のリーディングな存在として評価することもできる。
当初、すぐに頭角を現したのは、親方の一番弟子でもある受安であった。一方、同期の中で最も入門の遅かった受冠は、体格も劣り目立たない存在であった。しかし、序二段に上がってからは受冠が先に全勝し優勝決定戦に進出、番付のうえでも受安を追い抜く。続く場所では両者が揃って全勝とし序二段優勝決定戦で相見えるが、ここでは受冠が制したが、これが部屋初の各段優勝となった。三段目では逆に、受冠が星を落とすなかで受安が全勝とし優勝を決め、再び受安が番付を追い抜くこととなる。同時に、この2人のみが部屋で最初の幕下力士となった。一方、このとき同時に序二段優勝を決めていた受山が、1場所遅れて幕下に上がるとすぐにこの先頭争いに加わっていくことになる。
第1期
草創期の混戦模様から一気に抜け出したのは受龍であった。幕下昇進まではやや出遅れた感があったが、新幕下で優勝すると一気に頭角をあらわし、幕下を3場所で通過して、受山と共に部屋史上初の関取に上がった。このときの受山もかなり重要な存在であり、新関取が複数存在し定着できたことで、戦略的にも多様な育成に挑めたことは大きく、保険にもなった。それ以後現在に至るまで、関取2名の場所は存在したが、関取が1名のみとなることはなかった。受山は幕内に上がることはなかったが、受山が受龍とともに最初の関取となりあるいは十両に定着していなければ、部屋の歴史は大きく変わっていた可能性もあるだろう。
受龍は、新十両の場所こそ負け越したが、その後はすぐに番付を上げていき、18年には関脇で二桁勝利を上げるにまで至った。この時期が受龍という力士のピークであると同時にある種の部屋のピークとさえ評価できる時期である。受龍は1年にわたり三役に在位して好成績を残し、その後も幕内で極めて安定した成績を残して複数回の好成績をも記録している。これらの記録のうち、幕内在位は冠馬に、三役在位は金朱鷺にのちに破られることになるが、いずれも歴代単独2位は未だに受龍の記録が残っており、個人の卓越性のみで見れば総合的には部屋歴代最強の力士として評価することも可能な程である。部屋の第一号の関取が歴代最強との呼び声もあるというのはやや奇妙な感もある。
当初は受龍単独での安定感であったが、その間に着実に他の力士が育ってきていた。18年に入ると受安、受濱が相次いで関取に上がり、この両者は定着できなかったが、続いて4人の関取が一気に誕生すると、この4人は揃って勝ち越して関取に定着した。この4人の中に、初期の名平幕である受武と受冠も居た。その後、さらに関取数が増加していき、十両力士が中心でありながらも部屋は安定感を増していく。
部屋2人目の幕内力士となったのは受武であった。全勝優勝で十両を2場所で通過し、一気に幕内上位まで駆け上がった。出世がやや遅かったぶん入門以来17場所連続勝ち越しの記録も保持している。受武が一気に上位まで上がったことで、幕内に定着する2人目の力士が育成でき、安定運営の面では大いに役立った。ついで幕内に上がったのは受海であった。この力士は、幕下までは部屋内でも比較的卓越した成績を残していた期待株であったが、幕下上位でやや伸び悩んだ。それでも2度の幕下優勝や十両での好成績で早くに幕内まで上り詰めた。新入幕の場所は大敗に終わって十両陥落が確定的になったが、まだ十分にやりなおしが効く時期であり、初期の周囲の力士の安定感を見ても十両で再起を図れさえすれば再び幕内に定着して部屋を支える中核の1人となる期待は十分であった。しかしながら新入幕の場所でいわゆる強制引退にかかり、部屋初の引退力士となってしまったのは手痛いことであった。入れ替わるように幕内に上がったのが受冠であった。
この時期(19年半ば)には受武も1度十両に落ち、受龍も三役から落ちるとそのまま番付を落として行ってしまったのだが、受武がすぐ幕内に復帰し、受冠もまた十両陥落を挟みながらも幕内に定着したことで、受龍と並んで3名の平幕力士が在位することになり、幕内での戦略立案に大いに寄与した。初期の幕内での戦績は二桁の大敗が極めて多かったが、この3力士が活躍する中で比較的安定した成績を残せるようになっていった。ポイントを潤沢に使って関取に上がり、少ないポイントで幕内に長く定着するという受藏部屋の典型的なスタイルは、この時期に由来するものと言えるかも知れない。20年初場所には受龍と受冠は揃って十両に落ちてしまったが受武がただ1人幕内を維持し、受龍が台頭してからははじめて別の力士が部屋頭になった。翌場所では受龍と受冠も幕内に復帰し、相次いで部屋頭を務めるなど、その実力は拮抗した感があった。もっとも卓越していたのはやはり受龍であったが、もっとも安定感があったのは受武であり、受冠は実績は残したがやや好不調の波があった。
この間に着実に関取も増加を続けていた。初期に活躍した関取とはかなり十両の顔ぶれも変わり、やや遅咲きの力士が十両で台頭しはじめていた。初期の力士の中では受山や受劍、さらに少し遅めの世代で受國・受王・受樓、さらにいくと受岐や受巖といった力士が相次いで十両への定着を見せた。特に期待されたのは受巖であったが、十両への定着が遅れたこともありやや伸び悩み、結局幕内には上がることは無かった。その他の力士は十両では安定していたが幕内待ったなしというほど卓越した感は無かった。潮目が変わったのが20年半ばで、受印・受砲・受喬の3力士が揃って新十両を果たした。同時新十両のこの3力士はいずれもそれ以前の十両をはるかに凌ぐ卓越性を見せた。このうち受印は20年中に幕内に上がり、部屋で通算5人目の幕内力士となった。受冠の新入幕から1年半ほどが経過したこの時期に、初期世代と全く毛色の違う新たな幕内力士が誕生したことが、受龍・受武・受冠のトロイカ体制から部屋の力関係が大きく変動していく初めとなった。受砲と受喬も1場所遅れで幕内に上がり、21年に入った時点で幕内には6名の力士が並んでいた。受砲はすぐに引退し、受喬も怪我で低迷したため、幕内で活躍とまではいかなかったが、相次いで幕内力士が誕生し、あるいは幕内で受藏部屋の勢力が拡大したことによって、十両での幕内力士育成に向けた手法や幕内における戦略の深化が著しく進んだということは否定できず、受印のみならずこの両力士の活躍もあったことが部屋の歴史において大きな意義を持った。これ以降は毎場所のように複数の新入幕力士が誕生する、部屋全体としては安定期が、部屋の勢力バランスとしては大きな変革期が到来した。
こうした大きな流れの中で、21年の前半にはもともと幕内に定着していた3人のうち受龍を除く2人、受武と受冠が、全盛期を迎えていた。それまで幕内下位が主戦場であった両力士だが、この時期には幕内で安定した成績を残せるようになって上位に上がり、相次いで部屋頭を務め、21年半ばには揃って三役手前の東西の前頭筆頭に名を連ねた。受龍が三役を去って以降は、上位で安定する力士も少なかったため、久方ぶりの三役の復活に期待が膨らんだ。だが、いずれも負け越して三役には上がれず、この2人はいずれもここをピークに以後は実力を落として行き、部屋頭にも返り咲くことはなかった。受龍もまた、21年に入ってすぐの時期を最後に部屋頭の地位から離れていて、以後それに復することは無かった。変わって部屋の中心として台頭してきたのが受具と受印であり、21年の最後にはこの2人が揃って受龍以来の三役力士となった。これによって初期の受龍・受武・受冠によるトロイカ体制は終焉を迎え、新たな時代への以降が急速に進んでいく(第2期へ)。
受龍は、新十両の場所こそ負け越したが、その後はすぐに番付を上げていき、18年には関脇で二桁勝利を上げるにまで至った。この時期が受龍という力士のピークであると同時にある種の部屋のピークとさえ評価できる時期である。受龍は1年にわたり三役に在位して好成績を残し、その後も幕内で極めて安定した成績を残して複数回の好成績をも記録している。これらの記録のうち、幕内在位は冠馬に、三役在位は金朱鷺にのちに破られることになるが、いずれも歴代単独2位は未だに受龍の記録が残っており、個人の卓越性のみで見れば総合的には部屋歴代最強の力士として評価することも可能な程である。部屋の第一号の関取が歴代最強との呼び声もあるというのはやや奇妙な感もある。
当初は受龍単独での安定感であったが、その間に着実に他の力士が育ってきていた。18年に入ると受安、受濱が相次いで関取に上がり、この両者は定着できなかったが、続いて4人の関取が一気に誕生すると、この4人は揃って勝ち越して関取に定着した。この4人の中に、初期の名平幕である受武と受冠も居た。その後、さらに関取数が増加していき、十両力士が中心でありながらも部屋は安定感を増していく。
部屋2人目の幕内力士となったのは受武であった。全勝優勝で十両を2場所で通過し、一気に幕内上位まで駆け上がった。出世がやや遅かったぶん入門以来17場所連続勝ち越しの記録も保持している。受武が一気に上位まで上がったことで、幕内に定着する2人目の力士が育成でき、安定運営の面では大いに役立った。ついで幕内に上がったのは受海であった。この力士は、幕下までは部屋内でも比較的卓越した成績を残していた期待株であったが、幕下上位でやや伸び悩んだ。それでも2度の幕下優勝や十両での好成績で早くに幕内まで上り詰めた。新入幕の場所は大敗に終わって十両陥落が確定的になったが、まだ十分にやりなおしが効く時期であり、初期の周囲の力士の安定感を見ても十両で再起を図れさえすれば再び幕内に定着して部屋を支える中核の1人となる期待は十分であった。しかしながら新入幕の場所でいわゆる強制引退にかかり、部屋初の引退力士となってしまったのは手痛いことであった。入れ替わるように幕内に上がったのが受冠であった。
この時期(19年半ば)には受武も1度十両に落ち、受龍も三役から落ちるとそのまま番付を落として行ってしまったのだが、受武がすぐ幕内に復帰し、受冠もまた十両陥落を挟みながらも幕内に定着したことで、受龍と並んで3名の平幕力士が在位することになり、幕内での戦略立案に大いに寄与した。初期の幕内での戦績は二桁の大敗が極めて多かったが、この3力士が活躍する中で比較的安定した成績を残せるようになっていった。ポイントを潤沢に使って関取に上がり、少ないポイントで幕内に長く定着するという受藏部屋の典型的なスタイルは、この時期に由来するものと言えるかも知れない。20年初場所には受龍と受冠は揃って十両に落ちてしまったが受武がただ1人幕内を維持し、受龍が台頭してからははじめて別の力士が部屋頭になった。翌場所では受龍と受冠も幕内に復帰し、相次いで部屋頭を務めるなど、その実力は拮抗した感があった。もっとも卓越していたのはやはり受龍であったが、もっとも安定感があったのは受武であり、受冠は実績は残したがやや好不調の波があった。
この間に着実に関取も増加を続けていた。初期に活躍した関取とはかなり十両の顔ぶれも変わり、やや遅咲きの力士が十両で台頭しはじめていた。初期の力士の中では受山や受劍、さらに少し遅めの世代で受國・受王・受樓、さらにいくと受岐や受巖といった力士が相次いで十両への定着を見せた。特に期待されたのは受巖であったが、十両への定着が遅れたこともありやや伸び悩み、結局幕内には上がることは無かった。その他の力士は十両では安定していたが幕内待ったなしというほど卓越した感は無かった。潮目が変わったのが20年半ばで、受印・受砲・受喬の3力士が揃って新十両を果たした。同時新十両のこの3力士はいずれもそれ以前の十両をはるかに凌ぐ卓越性を見せた。このうち受印は20年中に幕内に上がり、部屋で通算5人目の幕内力士となった。受冠の新入幕から1年半ほどが経過したこの時期に、初期世代と全く毛色の違う新たな幕内力士が誕生したことが、受龍・受武・受冠のトロイカ体制から部屋の力関係が大きく変動していく初めとなった。受砲と受喬も1場所遅れで幕内に上がり、21年に入った時点で幕内には6名の力士が並んでいた。受砲はすぐに引退し、受喬も怪我で低迷したため、幕内で活躍とまではいかなかったが、相次いで幕内力士が誕生し、あるいは幕内で受藏部屋の勢力が拡大したことによって、十両での幕内力士育成に向けた手法や幕内における戦略の深化が著しく進んだということは否定できず、受印のみならずこの両力士の活躍もあったことが部屋の歴史において大きな意義を持った。これ以降は毎場所のように複数の新入幕力士が誕生する、部屋全体としては安定期が、部屋の勢力バランスとしては大きな変革期が到来した。
こうした大きな流れの中で、21年の前半にはもともと幕内に定着していた3人のうち受龍を除く2人、受武と受冠が、全盛期を迎えていた。それまで幕内下位が主戦場であった両力士だが、この時期には幕内で安定した成績を残せるようになって上位に上がり、相次いで部屋頭を務め、21年半ばには揃って三役手前の東西の前頭筆頭に名を連ねた。受龍が三役を去って以降は、上位で安定する力士も少なかったため、久方ぶりの三役の復活に期待が膨らんだ。だが、いずれも負け越して三役には上がれず、この2人はいずれもここをピークに以後は実力を落として行き、部屋頭にも返り咲くことはなかった。受龍もまた、21年に入ってすぐの時期を最後に部屋頭の地位から離れていて、以後それに復することは無かった。変わって部屋の中心として台頭してきたのが受具と受印であり、21年の最後にはこの2人が揃って受龍以来の三役力士となった。これによって初期の受龍・受武・受冠によるトロイカ体制は終焉を迎え、新たな時代への以降が急速に進んでいく(第2期へ)。
第2期
第1期を主導した3力士を除けば、多くの第一世代の力士にとっての全盛期がこの時期であり、幕内力士を大量に擁して部屋全体が活況を呈した。また、極めて引退の早かった受海・受砲にかわって入門した第二世代の力士も急速に成長し、幕内上位に定着して部屋を支えた。しかし、その後の世代は時間も空き育成もやや苦労したことから世代交代がうまくいかず、第一世代の力士が一斉に年齢的衰えを迎えると部屋は早々に衰退に向かうこととなる。初期の爛熟期と評価すべき時期である。突出した実力の力士は少なく、群雄割拠の様相を呈した。
前時代に終止符を打った受具・受印の両関脇がこの時期の最初の覇者であった。とりわけ受印は大関をうかがう活躍を見せたが、いずれも安定せずすぐに三役から陥落すると1年以内に十両まで番付を落とした。かわって台頭したのが、初期世代でも最も出世が遅かった部類に入る受越と、第二世代最初の力士である受鯨であり、この2人も揃って三役に上がった。矢継ぎ早に三役力士を輩出できたのは部屋の活気の現れであった。この時期には部屋の幕内力士が12に到達することもあった。受鯨は新関脇で12勝をあげるなど、受龍に次ぐ活躍を見せたが、受印と同様に大関には届かなかった。部屋全体を見ればこの時期がもっとも大関に近づいた時期でもあり、この好機を逸したのは手痛いことであった。三役力士以外では、22年のはじめに受龍が三役復帰に近づく幕内復帰後の最高位に到達したほか、受武も22年から23年にかけて2度平幕上位に上がった。しかし全体的に見れば幕内中位以下を主戦場とする力士が殆どであった。
23年の後半になって受鯨が三役を離れて以降はこの状況が俄に変化した。受具が復活し、受王もあらたに幕内上位に上がった。24年の前半はこの2人に直近の三役経験者である受鯨と受越を加えた4力士が覇権を争ったが、受越が三役に1場所復帰したのみで、あとは平幕上位に終始した。24年の後半に入ると第二世代の2人目である受車が一気に浮上したが、受具は前述の4力士のうち唯一上位で安定を保ち、また新たに受哲も上位に上がったため、この3力士が伯仲する形となった。25年に入ると受鯨が復調し、受車と、第一世代では最後まで上位の力を保った受具との3者が部屋を支えたが、いずれも上位に定着しているとは言い難い状況で、部屋の勢力の衰亡がうかがわれた。第一世代は25年の序盤に全員が古参入りしたため、年齢的な限界となっており、それも相まって部屋の幕内力士は相次いで十両に陥落していった。26年に入って受具も力尽き、第一世代の幕内力士は一時不在となり、のち受武と受哲が復帰したがいずれも勝ち越せずに終わった。受鯨と受車もまた凋落し、26年のうちに9年半続いた部屋の幕内力士は不在となってしまった。
幕内力士の増加の余勢を駆ってか、受印、受具、受龍、受武、受越、受鯨、受王、受車、受哲と多彩な力士が活躍したが、突出した存在は無く総じて戦国期と評価できる。世代が若く年齢に余裕のある受鯨や受車が部屋を牽引する存在たりきれなかったために、上位での活躍も概ね個性派止まりで終わり、総じて意義に乏しい時代であった。
前時代に終止符を打った受具・受印の両関脇がこの時期の最初の覇者であった。とりわけ受印は大関をうかがう活躍を見せたが、いずれも安定せずすぐに三役から陥落すると1年以内に十両まで番付を落とした。かわって台頭したのが、初期世代でも最も出世が遅かった部類に入る受越と、第二世代最初の力士である受鯨であり、この2人も揃って三役に上がった。矢継ぎ早に三役力士を輩出できたのは部屋の活気の現れであった。この時期には部屋の幕内力士が12に到達することもあった。受鯨は新関脇で12勝をあげるなど、受龍に次ぐ活躍を見せたが、受印と同様に大関には届かなかった。部屋全体を見ればこの時期がもっとも大関に近づいた時期でもあり、この好機を逸したのは手痛いことであった。三役力士以外では、22年のはじめに受龍が三役復帰に近づく幕内復帰後の最高位に到達したほか、受武も22年から23年にかけて2度平幕上位に上がった。しかし全体的に見れば幕内中位以下を主戦場とする力士が殆どであった。
23年の後半になって受鯨が三役を離れて以降はこの状況が俄に変化した。受具が復活し、受王もあらたに幕内上位に上がった。24年の前半はこの2人に直近の三役経験者である受鯨と受越を加えた4力士が覇権を争ったが、受越が三役に1場所復帰したのみで、あとは平幕上位に終始した。24年の後半に入ると第二世代の2人目である受車が一気に浮上したが、受具は前述の4力士のうち唯一上位で安定を保ち、また新たに受哲も上位に上がったため、この3力士が伯仲する形となった。25年に入ると受鯨が復調し、受車と、第一世代では最後まで上位の力を保った受具との3者が部屋を支えたが、いずれも上位に定着しているとは言い難い状況で、部屋の勢力の衰亡がうかがわれた。第一世代は25年の序盤に全員が古参入りしたため、年齢的な限界となっており、それも相まって部屋の幕内力士は相次いで十両に陥落していった。26年に入って受具も力尽き、第一世代の幕内力士は一時不在となり、のち受武と受哲が復帰したがいずれも勝ち越せずに終わった。受鯨と受車もまた凋落し、26年のうちに9年半続いた部屋の幕内力士は不在となってしまった。
幕内力士の増加の余勢を駆ってか、受印、受具、受龍、受武、受越、受鯨、受王、受車、受哲と多彩な力士が活躍したが、突出した存在は無く総じて戦国期と評価できる。世代が若く年齢に余裕のある受鯨や受車が部屋を牽引する存在たりきれなかったために、上位での活躍も概ね個性派止まりで終わり、総じて意義に乏しい時代であった。
第3期
総じて幕内力士を欠いた、受藏部屋「冬の時代」。僅か3年の短い時代ではあるが、その独自性は極めて顕著である。実質的には受金が殆どただ1人で部屋を支えた。
前時代までの力士は27年に入った時点で既に受鯨、受武、受車が十両に残るのみであり、同年中に全員が関取を去った。このため、第二世代の3人目であり既に幕内に上がっていた受金が唯一の部屋を支える存在であった。ところが関取数の少なさもあり、受金も幕内に定着することはかなわなかった。27年の半ばになってようやく第二世代から4人目の関取として受雪が十両に上がった。受雪は受龍・受山に次ぐスピード昇進であり、部屋次世代のホープとして期待されたが、十両では勝ち越せず僅か2場所で幕下に下がってしまった。入れ替わる形で十両に上がった受天は十両に定着し、28年半ばには幕内目前まで進出、1年半ぶりに受金以外の部屋頭となったが、結局幕内に上がることなく十両在位9場所のみで29年には幕下に陥落した。さらに28年には受凌、受雷という力士が上がったが、この2人は受雪や受天よりも年上であり、また十両でもめぼしい活躍はなく、総じて十両を維持するのがやっとのところであった。こうした情勢もあり29年半ばまで2年半は受金が事実上唯一の部屋の中枢となっていた。関取数が少なく十両での戦略に通暁し難かったことで受雪や受天といった新関取有望株の育成に失敗したことが「冬の時代」をさらに延ばした。関取不在ともなれば更に回復は困難であるところ、受金が関取を堅持したため最悪の事態は免れたが、29年前半にはいったん関取が僅か2名というところまで追い詰められた。29年後半に入って次の時代を象徴する3力士のうちの2人である、当時はまだ若手であった大冠と海冠の2人が同時に十両昇進を果たしたことがきっかけとなり、「冬の時代」は打開されていくことになる。いっぽうこの時代を支えた受金は29年が最後の全盛の時であり、以後は幕内に復帰することも無かった。
第2期での後身育成・世代交代の失敗がそのまま跳ね返った結果としての低迷期であり、関取数の減少が育成の行き詰まりを加速した。あと少しも関取が多く十両での戦術に慣れていれば、受雪や受天の失速も無かったのではないかと思われるが、それほどまで受金に次ぐ安定したナンバー2が存在しない状況は厳しいものであった。受金が衰えを見せても関取を堅持したことで難を免れたといえるが、戦術的には極めて不安定なものであり、こうした状況を創出したこと自体が酷評されるべきものである。これを打開するのは当然に若い関取の増加であるのだが、それを達成したのが新親方の最初の弟子である若い2人であったことが、時代の転換点として余りにも象徴的な「雪融け」であった。それまでの十両力士の試行錯誤の積み重ねもまた、この2人の育成の成功に寄与した部分もあり、その意味では受凌や受雷の存在も決して無駄ではなかった。
部屋の歴史の中では、草創期とこの時代を除けばほぼ全ての時期で幕内力士が存在しており、特に第4期以降は絶えることなくこの流れを維持している。その意味でも特殊な時代といえ、例えば受天は草創期の力士を除けば唯一の「十両止まりの部屋頭経験者」であった。この時代に限り、十両史は完全に部屋の歴史と同一視して描写されることになる。
前時代までの力士は27年に入った時点で既に受鯨、受武、受車が十両に残るのみであり、同年中に全員が関取を去った。このため、第二世代の3人目であり既に幕内に上がっていた受金が唯一の部屋を支える存在であった。ところが関取数の少なさもあり、受金も幕内に定着することはかなわなかった。27年の半ばになってようやく第二世代から4人目の関取として受雪が十両に上がった。受雪は受龍・受山に次ぐスピード昇進であり、部屋次世代のホープとして期待されたが、十両では勝ち越せず僅か2場所で幕下に下がってしまった。入れ替わる形で十両に上がった受天は十両に定着し、28年半ばには幕内目前まで進出、1年半ぶりに受金以外の部屋頭となったが、結局幕内に上がることなく十両在位9場所のみで29年には幕下に陥落した。さらに28年には受凌、受雷という力士が上がったが、この2人は受雪や受天よりも年上であり、また十両でもめぼしい活躍はなく、総じて十両を維持するのがやっとのところであった。こうした情勢もあり29年半ばまで2年半は受金が事実上唯一の部屋の中枢となっていた。関取数が少なく十両での戦略に通暁し難かったことで受雪や受天といった新関取有望株の育成に失敗したことが「冬の時代」をさらに延ばした。関取不在ともなれば更に回復は困難であるところ、受金が関取を堅持したため最悪の事態は免れたが、29年前半にはいったん関取が僅か2名というところまで追い詰められた。29年後半に入って次の時代を象徴する3力士のうちの2人である、当時はまだ若手であった大冠と海冠の2人が同時に十両昇進を果たしたことがきっかけとなり、「冬の時代」は打開されていくことになる。いっぽうこの時代を支えた受金は29年が最後の全盛の時であり、以後は幕内に復帰することも無かった。
第2期での後身育成・世代交代の失敗がそのまま跳ね返った結果としての低迷期であり、関取数の減少が育成の行き詰まりを加速した。あと少しも関取が多く十両での戦術に慣れていれば、受雪や受天の失速も無かったのではないかと思われるが、それほどまで受金に次ぐ安定したナンバー2が存在しない状況は厳しいものであった。受金が衰えを見せても関取を堅持したことで難を免れたといえるが、戦術的には極めて不安定なものであり、こうした状況を創出したこと自体が酷評されるべきものである。これを打開するのは当然に若い関取の増加であるのだが、それを達成したのが新親方の最初の弟子である若い2人であったことが、時代の転換点として余りにも象徴的な「雪融け」であった。それまでの十両力士の試行錯誤の積み重ねもまた、この2人の育成の成功に寄与した部分もあり、その意味では受凌や受雷の存在も決して無駄ではなかった。
部屋の歴史の中では、草創期とこの時代を除けばほぼ全ての時期で幕内力士が存在しており、特に第4期以降は絶えることなくこの流れを維持している。その意味でも特殊な時代といえ、例えば受天は草創期の力士を除けば唯一の「十両止まりの部屋頭経験者」であった。この時代に限り、十両史は完全に部屋の歴史と同一視して描写されることになる。
第4期
海冠、受膽、大冠の「中興三傑」が入れ替わるように部屋を先導し、低迷期にあった部屋の勢力を回復した部屋再興の時代である。3力士のそれぞれが主導した時期ごとに細分化しつつ分析を深めていく。
この時代について見る前に、2代親方の直弟子である世代、いわゆる「冠世代」の力士たちの出世について概観しておきたい。2代親方が就任して以降、最初の直弟子となったのは大冠であった。その4場所後に1つ歳下の海冠が入門し、次の場所では大冠の実弟である小冠も入った。その1つ下の世代の中でもっとも入門が早かった浪冠も出世の速度は早く、ここまでを「冠世代」の初期組と括って良い。
大冠はすぐに三段目優勝を果たし、一度三段目に落ちるもすぐに幕下に定着した。一方海冠も順調に幕下まで昇進すると、好成績をあげ、幕下中位で止まっていた大冠を一気に追い抜いた。小冠、浪冠も続けて幕下に上がり、29年の前半ではこの4力士が幕下で競っていた。その中でも大冠と海冠は番付上位が次々入れ替わるデッドヒートを繰り広げた。29年のはじめには両者が揃って十両昇進の可能性のある幕下15枚目以内に上がり、この世代の初めとなった。先に幕下5枚目以内に上がったのは大冠であったが、29年半ばに入ると両者は揃って十両目前の番付に名を連ねた。そして、29年後半の最初の場所に、両者は揃って十両に昇進、「冠世代」からの初の関取を同時に達成したのである。
こうした推移を受龍・受山に擬える向きもある。既に各段優勝の経験のあった受山が幕下に先に上がり、あとから幕下に上がった受龍がこれを追い抜くというのは、大冠と海冠の関係に酷似しているし、幕下15枚目以内に同時に上がったのもこれまたいずれの組でも同じであった。そして、あの関取同時昇進である。入門の時期の違いや両者とも幕下優勝が無いことは異なるにせよ、おおまかに同じような成績推移であった。海冠が受龍・受山に継ぐ(そして受雪に並ぶ)当時部屋歴代3位タイのスピード出世と極めて期待の高い力士であったことも、この評に拍車をかけるものであった。果たして、関取に上がってからの成績推移も似た傾向を示した。先に関取で好成績をあげたのは、受山であり大冠であったし、しかしその後にすぐに幕内に上がったのは受龍であり海冠であって、受山も大冠も十両に定着しながら長く幕内に届かず伸び悩んだ。海冠は新入幕も受龍に続く速さであり、「受龍の再来」として期待された。
部屋全体の観点から見ても、この両者の活躍は当時の情勢を考えれば傑出したものであった。何せ当時は関取も少なく、両者が昇進する直前では受金と受雷の僅か2人を数えるのみであったし、幕内に上がれるような力士も受金しか居なかったのである。当時の関取経験のある比較的若い世代の力士の中では、もっとも若く出世の早かった受雪は十両では一度も勝ち越すことは無かったし、受凌だって十両に定着するのがやっと、受天・受雷の福岡勢(この2人も活躍時期が同時期であり初期世代の同郷の先輩である名ライバルの受武・受河に擬える向きもあった)とて、比較的良かったとはいえ数場所に一度、十両の下の方で10~11番勝つのが関の山であったのだから、推して知るべしであった。しかもこの時点では、受天は大冠と海冠が上がってくる直前に幕下に落ちてしまったから、十両で戦える力がまだ残っていたのは受雷を除けば受凌だけという有様で、しかもこの人も十両ではなかなか勝ち越せなかったのである。受雪は28年のうちに十両復帰目前まで近づき、ここで上がれていれば年齢も若くその後の活躍への期待は高かったのであるが、怪我で大敗に終わり、結局その後ついに関取に返り咲くことすら無かった。受雷はこの中では唯一全盛であり、大冠・海冠の新十両の場所では、直前に自己最多の11勝を挙げて受金を除けば受天以来となる十両上位まで上り詰め、受金以来の新入幕に向け万全とするなど、幕内昇進に向け十分期待のできる力士であった。彼は結局この最大のワンチャンスを逃してしまい、その後はすぐに転落していったのだから後世の評価は著しく低いものになってはいるが、しかし当時においてはかなり期待の高い力士であったし、海冠に先んじて受金以来の幕内力士となる可能性も十分にあったことは、付言しておかねばならない。したがって受雷もまた当時では十分に期待されるべき力士であったのだが、年齢や実力を考えれば、たとえここで幕内に上がっていても定着は難しく、一瞬のみの活躍となっていた可能性が高いこともまた明らかであった(部屋運営者の観点から言えば、たとえ一瞬でも受雷に栄光を掴ませてやれば良かったという後悔の念は拭えないが)。こうした状況だから、年上の受金のみがほとんど唯一の部屋の屋台骨であり、この人は既に実力のうえでは全盛期を過ぎた感があったのだが、29年に入って幕内に復帰するなど復活の兆しが見え、大冠・海冠が十両に上がる直前には相撲が光り13勝2敗での十両優勝という快進撃で自己最高位を更新していた。しかしそれとて一瞬の輝きで、長い関取在位の末にようやく掴んだ栄光であったのだ。
大冠と海冠は十両に上がるや否やこの状況をたちまちひっくり返してしまった。新十両の場所を、大冠は13勝、海冠は11勝という怒涛の成績で終えた。大冠の13勝というのはこの直前で受金がようやく掴んだ最高勝利と同じ数であり、優勝こそ届かなかったが当時の部屋の状況から見れば傑出したものであった。海冠の11勝もまた、受天や受雷がようやく1度達成したくらいの好成績であった。大冠はこの好成績が評価されて次場所は東十両2枚目という高地位で迎えるが、これは当時の受金以外の若めの4関取経験者のうち最も最高位が上であった受天のその最高位を半枚上回るものであり、つまりは受金以外の当時の実力ある力士が達成したのでは既に最も高い番付ということになった。大冠はここで負け越し、以後はしばらく十両で停滞することとなるが、海冠は2場所連続の二桁勝利という、受金以来では初めての記録を残し、大冠と入れ替わるようにして一気に十両上位まで上り詰めると、この場所でも二桁勝利を達成し、30年には、実に受金以来3年ぶりとなる部屋の新入幕力士となったのである。入門以来一度の負け越しもなく幕内に上がったのは受武以来であった。
30年に入ると、前の時代を担っていた受金や受雷は実力を落としていく一方で、受鬼や受船、浪冠、受蛇といった新鋭が台頭し、この年の後半に入ったころには関取が9人にものぼるなど、部屋の勢力の回復は著しいものであったが、海冠以外では、若い大冠や関取在位の長い受金、受凌が稀に十両上位に顔を出すくらいで、続く新入幕力士はなかなか誕生しなかった。その間に海冠は幕内で着実に番付を上げていった。入幕2場所目ですぐに受金の最高位すら追い抜いてしまうと、次の場所では惜しくも入門以来はじめての負け越しとなってしまったものの、その後も勝ち越しを重ね、同年後半にはついに平幕上位まで番付を上げていた。このタイミングでようやく海冠以来となる新入幕力士として受鬼が幕内まで上がった。海冠を除く力士の中では最も傑出していたのは受鬼であり、時代を支える名脇役としての活躍が期待されたのだが、残念ながら幕内にも定着することはなかった。かわって時代を彩ることになったのが、30年の終盤に入って相次いで十両に上がった受膽と受若であった。31年には、衰えていく海冠にかわり、この2人が入れ替わって時代を先導していくことになる。
ここで、第二世代(初代親方の弟子のうち、部屋創設時の弟子を除く15名)の末期の力士の出世について見ておきたい。この世代の力士は、実は出世の面ではかなり伸び悩んだという印象を強く残す。1つ上の学年の受天、受燈、受雪といえば、いずれも期待値も高くスピード出世で名を轟かせた。これら3力士が果たしてどういった結果を残したかというのは歴史が示す通りなのだが、少なくとも入門当初の時点においては、あるいは幕下上位や十両に上がるまでというのを見れば、非常に高い期待を受けた力士たちであったといえる。一方で、26年入門の同学年組はといえば、総じて出世が遅い力士たちであった。もちろん、学年を先導する受對と受鹽の2人は、入門当初から非常に期待される力士で、その通り問題なくすぐに幕下に上がった。この中でも特に受鹽は受燈と並んで序ノ口・序二段1場所通過や入門5場所目での新幕下という、第一世代の受寧や受安・受冠以来の最速記録での出世を成し遂げており、非常に期待の高い力士であった。しかし、受燈や受雪、そして少し幕下昇進は遅かったが受天といった上の学年の力士が、あるいはその上の世代の中でも期待株であった受鯨・受車・受金・受船という力士が、幕下にすぐに定着して上位まで番付を上げて行ったのとは裏腹に、受鹽は幕下ではついに勝ち越せず定着もほとんどできないままで、周囲の期待の高さに応えきれない苦しみから若くして引退してしまったし、この学年で他に幕下までは出世の早かった受膽も同様に幕下で負け越してなかなか定着できずと、前世代まででは受雷や受凌を数える程度であった成績推移をなぞることとなってしまった。受若もまた、幕下で一度勝ち越したあとに怪我で番付を落とし、幕下定着には時間がかかった。このためこの世代の中で幕下にすぐに定着できたのは受對のみであった。しかし唯一の期待の星というべきであった受對は伸び悩んだ上に怪我も祟って、2つ上の受船や1つ上の受燈と同様に、一直線での十両昇進とはいかず、幕下以下で長く低迷を続けることになってしまった(第一世代は全員が関取に上がった一方で、こうしたなかなか関取に上がるのが難しい力士が周囲に少なく無かったことも、受鹽が関取昇進の困難を悲観して早々に引退を決意した背景として指摘できる部分であるが、当時からすれば意外なことにこの3力士はいずれものちに十両に上がり、かつそれなりの実績を残している)。さらにこの世代では、受鬼と受蛇の2人が序ノ口で低迷するなど、親方交代の混乱もあって結果を残せない力士が続出した。前記の受膽や受若も幕下から陥落後には三段目での長い低迷を経験している。こうしたなかで、同じ学年ではあるが親方の異なる大冠が、幕下に一度目で定着とはいかなかったもののすぐに復帰・定着を果たし、さらに海冠・小冠・浪冠といった彼らより若い力士が次々と幕下定着と上位進出を果たしていった。
こうした事情もあり、この世代は極めて期待薄という評価しか得られていなかった。また、大冠・海冠以前に十両に上がった力士である、受雪・受天・受凌・受雷が、思わしく無い結果に終わっていたことも拍車をかけた。しかし受鬼と受蛇は、28年の終わりにようやく幕下に上がると一気に頭角を現し、30年に入ってから相次いで十両に上がった。幕下昇進までは早かった受膽と受若もまた、29年の終わりから一気に台頭し、これに続いた。特に受膽は幕下に復帰してからは破竹の勢いで、1年も経たずに十両にまで上がっている。受膽は三段目で2度の優勝も経験しており、伸び悩んでいた実力者がようやく開花したのだという印象を与えさせた。果たして受蛇こそ幕内には上がれなかったが、受鬼は30年中に先んじて幕内に上がり海冠に続く幕内力士となった。そして受膽・受若の一気の出世へと繋がるのである。
31年に入ってすぐの場所は、受膽と受若の躍進を象徴する場所となった。この場所では受膽は28年の大冠以来となる13勝の好成績を上げたが、受若はそれを上回り14勝とし、受金以来の十両優勝となって、続く場所でこの2人は揃って新入幕となった。特に受膽は新入幕の時点で既に前頭4枚目という極めて高い番付となっており、ここで9勝をあげて一気に翌場所では東前頭筆頭まで番付を上げたが、この時点で同時に海冠を上回り部屋頭となった。その後は海冠と部屋頭を巡って競い合う状態になったが、すぐに海冠は実力を落として十両に陥落したので、受膽が安定して部屋頭の地位におさまることとなった。受若もすぐに幕内に定着し、続く32年にはこの2人が1年間幕内を維持して部屋全体をリードした。受若は幕内中位から下位が主戦場であったが、受膽はすぐに上位に復帰すると、前頭4枚目で11勝の好成績をあげて小結に昇進し、24年の受越以来8年ぶりの部屋の三役力士の復活にまで漕ぎ着けた。なお、受膽にとってもこれが幕内で初めての二桁勝利であったのだが、受金・海冠・受鬼・受若のいずれも幕内で二桁勝利を挙げていないこともあり、幕内の二桁勝利自体が25年の受鯨以来である。しかし、受膽は新三役の場所で僅か5勝しかできず、過去の世代の力士のように三役に定着することはかなわなかった。
32年の後半に入ると幕内の土俵も充実してくる。まず海冠が十両で自身最多の12勝をあげ、久々に幕内に復帰した。ついで十両優勝経験者の浪冠も十両で二桁勝利を続けて新入幕を達成した。極め付けに、新十両から20場所も十両で伸び悩んでいた大冠が十両筆頭で12勝3敗と自身初の十両優勝を達成し、ようやく新入幕を果たすことができた。32年が終わる時点では、これに受膽と受若を加えた5人が幕内に在位し、いずれも幕内の地位を守った。
33年に入ってすぐの場所では、このうち大冠と受膽を除く3人が十両へ陥落することになり、続く場所で受膽もまたその後を追った。既に部屋頭であった大冠が師匠の最高位である東前頭筆頭に在位して部屋をリードし、33年の半ばから後半には彼を中心に、幕内に復帰してきた受膽と浪冠や、相次いで新入幕を達成し「三羽烏」と称された福冠、冠馬、八冠の3人組が、その下の幕内力士として部屋を支えた。大冠は前頭2枚目で11勝をあげ、33年の後半には実に受鯨以来10年ぶりとなる部屋の関脇力士を復活させた。新関脇の場所は7勝に終わったが三役を維持し、また新入幕の冠馬が前頭7枚目で10勝の好成績を残して海冠・受膽・大冠に続く低迷期以来4人目の幕内上位力士に躍り出たため、33年の最後の場所では大冠が小結、冠馬が前頭筆頭と幕内上位に2人の力士が名を連ねたが、これは31年半ばに海冠・受膽が前頭の3枚目と4枚目に並んで以来であり、部屋の勢力の回復傾向を如実に示すとともに、大冠から冠馬へのスムーズな世代交代を予見させた。
果たして34年半ばには大冠に代わって冠馬が部屋頭の地位に就いた。第3期・第4期の歴史を振り返れば、受天を除き部屋頭に就いた力士が交互に時代を主導していき最高位も徐々に上がっていく形であり、流石にこのまま上り調子が続くというのは楽観的にしても基本的にはこの形での世代交代が続いていくものと想定された。しかし冠馬は上位に定着できず、同年後半には八冠が代わって部屋頭になったが、こちらも安定しなかった。そのような中で新鋭の鯨冠・冠力が番付を上げていき、新たな時代の幕開けとなる。
この時代を彩った代表的な力士である海冠・受鬼・受膽・受若・大冠のうち、その後も関取で安定した成績を残せたのは大冠のみであった。残る4人は全盛期を過ぎるとすぐに幕下に陥落し、うち受鬼と受膽はついに十両に返り咲くことはなかった。大冠は実力を残したまま土俵を去ったが、一方で残る4力士のうち、受鬼以外の3名は仙人に至るまで長く土俵を務めた。とりわけ海冠は現役末期に関取に復帰し、初の幕下・十両優勝を達成、仙人に入った場所を幕内の番付で迎えた。受膽・受若が引退したのは第6期に入って以後のことであり、海冠はさらに第7期に入り、「金世代」がいよいよ時代を先導しようというのを見届けながら土俵を去った。時代を率いた実力のある力士がここまで揃って後の時代まで現役を続けるのは稀有なことであり、時代の大転換を見届けた部屋の生き字引としての存在であった。
この時代について見る前に、2代親方の直弟子である世代、いわゆる「冠世代」の力士たちの出世について概観しておきたい。2代親方が就任して以降、最初の直弟子となったのは大冠であった。その4場所後に1つ歳下の海冠が入門し、次の場所では大冠の実弟である小冠も入った。その1つ下の世代の中でもっとも入門が早かった浪冠も出世の速度は早く、ここまでを「冠世代」の初期組と括って良い。
大冠はすぐに三段目優勝を果たし、一度三段目に落ちるもすぐに幕下に定着した。一方海冠も順調に幕下まで昇進すると、好成績をあげ、幕下中位で止まっていた大冠を一気に追い抜いた。小冠、浪冠も続けて幕下に上がり、29年の前半ではこの4力士が幕下で競っていた。その中でも大冠と海冠は番付上位が次々入れ替わるデッドヒートを繰り広げた。29年のはじめには両者が揃って十両昇進の可能性のある幕下15枚目以内に上がり、この世代の初めとなった。先に幕下5枚目以内に上がったのは大冠であったが、29年半ばに入ると両者は揃って十両目前の番付に名を連ねた。そして、29年後半の最初の場所に、両者は揃って十両に昇進、「冠世代」からの初の関取を同時に達成したのである。
こうした推移を受龍・受山に擬える向きもある。既に各段優勝の経験のあった受山が幕下に先に上がり、あとから幕下に上がった受龍がこれを追い抜くというのは、大冠と海冠の関係に酷似しているし、幕下15枚目以内に同時に上がったのもこれまたいずれの組でも同じであった。そして、あの関取同時昇進である。入門の時期の違いや両者とも幕下優勝が無いことは異なるにせよ、おおまかに同じような成績推移であった。海冠が受龍・受山に継ぐ(そして受雪に並ぶ)当時部屋歴代3位タイのスピード出世と極めて期待の高い力士であったことも、この評に拍車をかけるものであった。果たして、関取に上がってからの成績推移も似た傾向を示した。先に関取で好成績をあげたのは、受山であり大冠であったし、しかしその後にすぐに幕内に上がったのは受龍であり海冠であって、受山も大冠も十両に定着しながら長く幕内に届かず伸び悩んだ。海冠は新入幕も受龍に続く速さであり、「受龍の再来」として期待された。
部屋全体の観点から見ても、この両者の活躍は当時の情勢を考えれば傑出したものであった。何せ当時は関取も少なく、両者が昇進する直前では受金と受雷の僅か2人を数えるのみであったし、幕内に上がれるような力士も受金しか居なかったのである。当時の関取経験のある比較的若い世代の力士の中では、もっとも若く出世の早かった受雪は十両では一度も勝ち越すことは無かったし、受凌だって十両に定着するのがやっと、受天・受雷の福岡勢(この2人も活躍時期が同時期であり初期世代の同郷の先輩である名ライバルの受武・受河に擬える向きもあった)とて、比較的良かったとはいえ数場所に一度、十両の下の方で10~11番勝つのが関の山であったのだから、推して知るべしであった。しかもこの時点では、受天は大冠と海冠が上がってくる直前に幕下に落ちてしまったから、十両で戦える力がまだ残っていたのは受雷を除けば受凌だけという有様で、しかもこの人も十両ではなかなか勝ち越せなかったのである。受雪は28年のうちに十両復帰目前まで近づき、ここで上がれていれば年齢も若くその後の活躍への期待は高かったのであるが、怪我で大敗に終わり、結局その後ついに関取に返り咲くことすら無かった。受雷はこの中では唯一全盛であり、大冠・海冠の新十両の場所では、直前に自己最多の11勝を挙げて受金を除けば受天以来となる十両上位まで上り詰め、受金以来の新入幕に向け万全とするなど、幕内昇進に向け十分期待のできる力士であった。彼は結局この最大のワンチャンスを逃してしまい、その後はすぐに転落していったのだから後世の評価は著しく低いものになってはいるが、しかし当時においてはかなり期待の高い力士であったし、海冠に先んじて受金以来の幕内力士となる可能性も十分にあったことは、付言しておかねばならない。したがって受雷もまた当時では十分に期待されるべき力士であったのだが、年齢や実力を考えれば、たとえここで幕内に上がっていても定着は難しく、一瞬のみの活躍となっていた可能性が高いこともまた明らかであった(部屋運営者の観点から言えば、たとえ一瞬でも受雷に栄光を掴ませてやれば良かったという後悔の念は拭えないが)。こうした状況だから、年上の受金のみがほとんど唯一の部屋の屋台骨であり、この人は既に実力のうえでは全盛期を過ぎた感があったのだが、29年に入って幕内に復帰するなど復活の兆しが見え、大冠・海冠が十両に上がる直前には相撲が光り13勝2敗での十両優勝という快進撃で自己最高位を更新していた。しかしそれとて一瞬の輝きで、長い関取在位の末にようやく掴んだ栄光であったのだ。
大冠と海冠は十両に上がるや否やこの状況をたちまちひっくり返してしまった。新十両の場所を、大冠は13勝、海冠は11勝という怒涛の成績で終えた。大冠の13勝というのはこの直前で受金がようやく掴んだ最高勝利と同じ数であり、優勝こそ届かなかったが当時の部屋の状況から見れば傑出したものであった。海冠の11勝もまた、受天や受雷がようやく1度達成したくらいの好成績であった。大冠はこの好成績が評価されて次場所は東十両2枚目という高地位で迎えるが、これは当時の受金以外の若めの4関取経験者のうち最も最高位が上であった受天のその最高位を半枚上回るものであり、つまりは受金以外の当時の実力ある力士が達成したのでは既に最も高い番付ということになった。大冠はここで負け越し、以後はしばらく十両で停滞することとなるが、海冠は2場所連続の二桁勝利という、受金以来では初めての記録を残し、大冠と入れ替わるようにして一気に十両上位まで上り詰めると、この場所でも二桁勝利を達成し、30年には、実に受金以来3年ぶりとなる部屋の新入幕力士となったのである。入門以来一度の負け越しもなく幕内に上がったのは受武以来であった。
30年に入ると、前の時代を担っていた受金や受雷は実力を落としていく一方で、受鬼や受船、浪冠、受蛇といった新鋭が台頭し、この年の後半に入ったころには関取が9人にものぼるなど、部屋の勢力の回復は著しいものであったが、海冠以外では、若い大冠や関取在位の長い受金、受凌が稀に十両上位に顔を出すくらいで、続く新入幕力士はなかなか誕生しなかった。その間に海冠は幕内で着実に番付を上げていった。入幕2場所目ですぐに受金の最高位すら追い抜いてしまうと、次の場所では惜しくも入門以来はじめての負け越しとなってしまったものの、その後も勝ち越しを重ね、同年後半にはついに平幕上位まで番付を上げていた。このタイミングでようやく海冠以来となる新入幕力士として受鬼が幕内まで上がった。海冠を除く力士の中では最も傑出していたのは受鬼であり、時代を支える名脇役としての活躍が期待されたのだが、残念ながら幕内にも定着することはなかった。かわって時代を彩ることになったのが、30年の終盤に入って相次いで十両に上がった受膽と受若であった。31年には、衰えていく海冠にかわり、この2人が入れ替わって時代を先導していくことになる。
ここで、第二世代(初代親方の弟子のうち、部屋創設時の弟子を除く15名)の末期の力士の出世について見ておきたい。この世代の力士は、実は出世の面ではかなり伸び悩んだという印象を強く残す。1つ上の学年の受天、受燈、受雪といえば、いずれも期待値も高くスピード出世で名を轟かせた。これら3力士が果たしてどういった結果を残したかというのは歴史が示す通りなのだが、少なくとも入門当初の時点においては、あるいは幕下上位や十両に上がるまでというのを見れば、非常に高い期待を受けた力士たちであったといえる。一方で、26年入門の同学年組はといえば、総じて出世が遅い力士たちであった。もちろん、学年を先導する受對と受鹽の2人は、入門当初から非常に期待される力士で、その通り問題なくすぐに幕下に上がった。この中でも特に受鹽は受燈と並んで序ノ口・序二段1場所通過や入門5場所目での新幕下という、第一世代の受寧や受安・受冠以来の最速記録での出世を成し遂げており、非常に期待の高い力士であった。しかし、受燈や受雪、そして少し幕下昇進は遅かったが受天といった上の学年の力士が、あるいはその上の世代の中でも期待株であった受鯨・受車・受金・受船という力士が、幕下にすぐに定着して上位まで番付を上げて行ったのとは裏腹に、受鹽は幕下ではついに勝ち越せず定着もほとんどできないままで、周囲の期待の高さに応えきれない苦しみから若くして引退してしまったし、この学年で他に幕下までは出世の早かった受膽も同様に幕下で負け越してなかなか定着できずと、前世代まででは受雷や受凌を数える程度であった成績推移をなぞることとなってしまった。受若もまた、幕下で一度勝ち越したあとに怪我で番付を落とし、幕下定着には時間がかかった。このためこの世代の中で幕下にすぐに定着できたのは受對のみであった。しかし唯一の期待の星というべきであった受對は伸び悩んだ上に怪我も祟って、2つ上の受船や1つ上の受燈と同様に、一直線での十両昇進とはいかず、幕下以下で長く低迷を続けることになってしまった(第一世代は全員が関取に上がった一方で、こうしたなかなか関取に上がるのが難しい力士が周囲に少なく無かったことも、受鹽が関取昇進の困難を悲観して早々に引退を決意した背景として指摘できる部分であるが、当時からすれば意外なことにこの3力士はいずれものちに十両に上がり、かつそれなりの実績を残している)。さらにこの世代では、受鬼と受蛇の2人が序ノ口で低迷するなど、親方交代の混乱もあって結果を残せない力士が続出した。前記の受膽や受若も幕下から陥落後には三段目での長い低迷を経験している。こうしたなかで、同じ学年ではあるが親方の異なる大冠が、幕下に一度目で定着とはいかなかったもののすぐに復帰・定着を果たし、さらに海冠・小冠・浪冠といった彼らより若い力士が次々と幕下定着と上位進出を果たしていった。
こうした事情もあり、この世代は極めて期待薄という評価しか得られていなかった。また、大冠・海冠以前に十両に上がった力士である、受雪・受天・受凌・受雷が、思わしく無い結果に終わっていたことも拍車をかけた。しかし受鬼と受蛇は、28年の終わりにようやく幕下に上がると一気に頭角を現し、30年に入ってから相次いで十両に上がった。幕下昇進までは早かった受膽と受若もまた、29年の終わりから一気に台頭し、これに続いた。特に受膽は幕下に復帰してからは破竹の勢いで、1年も経たずに十両にまで上がっている。受膽は三段目で2度の優勝も経験しており、伸び悩んでいた実力者がようやく開花したのだという印象を与えさせた。果たして受蛇こそ幕内には上がれなかったが、受鬼は30年中に先んじて幕内に上がり海冠に続く幕内力士となった。そして受膽・受若の一気の出世へと繋がるのである。
31年に入ってすぐの場所は、受膽と受若の躍進を象徴する場所となった。この場所では受膽は28年の大冠以来となる13勝の好成績を上げたが、受若はそれを上回り14勝とし、受金以来の十両優勝となって、続く場所でこの2人は揃って新入幕となった。特に受膽は新入幕の時点で既に前頭4枚目という極めて高い番付となっており、ここで9勝をあげて一気に翌場所では東前頭筆頭まで番付を上げたが、この時点で同時に海冠を上回り部屋頭となった。その後は海冠と部屋頭を巡って競い合う状態になったが、すぐに海冠は実力を落として十両に陥落したので、受膽が安定して部屋頭の地位におさまることとなった。受若もすぐに幕内に定着し、続く32年にはこの2人が1年間幕内を維持して部屋全体をリードした。受若は幕内中位から下位が主戦場であったが、受膽はすぐに上位に復帰すると、前頭4枚目で11勝の好成績をあげて小結に昇進し、24年の受越以来8年ぶりの部屋の三役力士の復活にまで漕ぎ着けた。なお、受膽にとってもこれが幕内で初めての二桁勝利であったのだが、受金・海冠・受鬼・受若のいずれも幕内で二桁勝利を挙げていないこともあり、幕内の二桁勝利自体が25年の受鯨以来である。しかし、受膽は新三役の場所で僅か5勝しかできず、過去の世代の力士のように三役に定着することはかなわなかった。
32年の後半に入ると幕内の土俵も充実してくる。まず海冠が十両で自身最多の12勝をあげ、久々に幕内に復帰した。ついで十両優勝経験者の浪冠も十両で二桁勝利を続けて新入幕を達成した。極め付けに、新十両から20場所も十両で伸び悩んでいた大冠が十両筆頭で12勝3敗と自身初の十両優勝を達成し、ようやく新入幕を果たすことができた。32年が終わる時点では、これに受膽と受若を加えた5人が幕内に在位し、いずれも幕内の地位を守った。
33年に入ってすぐの場所では、このうち大冠と受膽を除く3人が十両へ陥落することになり、続く場所で受膽もまたその後を追った。既に部屋頭であった大冠が師匠の最高位である東前頭筆頭に在位して部屋をリードし、33年の半ばから後半には彼を中心に、幕内に復帰してきた受膽と浪冠や、相次いで新入幕を達成し「三羽烏」と称された福冠、冠馬、八冠の3人組が、その下の幕内力士として部屋を支えた。大冠は前頭2枚目で11勝をあげ、33年の後半には実に受鯨以来10年ぶりとなる部屋の関脇力士を復活させた。新関脇の場所は7勝に終わったが三役を維持し、また新入幕の冠馬が前頭7枚目で10勝の好成績を残して海冠・受膽・大冠に続く低迷期以来4人目の幕内上位力士に躍り出たため、33年の最後の場所では大冠が小結、冠馬が前頭筆頭と幕内上位に2人の力士が名を連ねたが、これは31年半ばに海冠・受膽が前頭の3枚目と4枚目に並んで以来であり、部屋の勢力の回復傾向を如実に示すとともに、大冠から冠馬へのスムーズな世代交代を予見させた。
果たして34年半ばには大冠に代わって冠馬が部屋頭の地位に就いた。第3期・第4期の歴史を振り返れば、受天を除き部屋頭に就いた力士が交互に時代を主導していき最高位も徐々に上がっていく形であり、流石にこのまま上り調子が続くというのは楽観的にしても基本的にはこの形での世代交代が続いていくものと想定された。しかし冠馬は上位に定着できず、同年後半には八冠が代わって部屋頭になったが、こちらも安定しなかった。そのような中で新鋭の鯨冠・冠力が番付を上げていき、新たな時代の幕開けとなる。
この時代を彩った代表的な力士である海冠・受鬼・受膽・受若・大冠のうち、その後も関取で安定した成績を残せたのは大冠のみであった。残る4人は全盛期を過ぎるとすぐに幕下に陥落し、うち受鬼と受膽はついに十両に返り咲くことはなかった。大冠は実力を残したまま土俵を去ったが、一方で残る4力士のうち、受鬼以外の3名は仙人に至るまで長く土俵を務めた。とりわけ海冠は現役末期に関取に復帰し、初の幕下・十両優勝を達成、仙人に入った場所を幕内の番付で迎えた。受膽・受若が引退したのは第6期に入って以後のことであり、海冠はさらに第7期に入り、「金世代」がいよいよ時代を先導しようというのを見届けながら土俵を去った。時代を率いた実力のある力士がここまで揃って後の時代まで現役を続けるのは稀有なことであり、時代の大転換を見届けた部屋の生き字引としての存在であった。
第5期
35年最初の場所で部屋頭となったのは鯨冠で、このときまだ入幕2場所目であった。また、その1枚下で2番手につけたのは、この場所新入幕の冠力であった。両力士はいずれも、前年の34年に十両昇進を果たしたばかりの新鋭であったが、大量のポイントを活かして一気に部屋の関取12人の頂点に上り詰めたのである。
2代親方の直弟子(その冠名から冠世代とも呼ばれる)のうち、まず幕内に上がったのは海冠、次に浪冠と大冠、そして福冠、冠馬、八冠の三羽烏であった。この間、もちろん多くの十両力士が誕生した。大冠・海冠・浪冠に続く4人目の関取となった綾冠、スピード出世の獅子冠・砲冠・吐冠、十両時代は三羽烏と並び称された実力者の苓冠、地味な冠翁、大冠の実弟で苦労人の小冠。ただ、獅子冠と砲冠は十両1場所で陥落、綾冠も十両には定着できず、吐冠も新十両時の怪我の影響で十両では思うような結果を残せなかった。三羽烏と同時期に活躍し期待値の高かった苓冠も、十両ではなかなか思うような結果は残せず、期待に反して十両在位はわずか4場所にとどまったし、冠翁もまた十両2場所目の怪我で幕下に陥落、十両復帰のためにかなり時間を食ってしまった。小冠は幕下時代の怪我のために出世が遅れ、十両に上がったときに既に現役の後半に差し掛かっていて、長い活躍はあまり期待できなかった。これが33年末までの状況であった。34年に入ってまず新十両を果たしたのが鯨冠と常冠であった。ついで怪我で苦戦した経験のある元冠、その後に冠力が新十両を果たした。常冠は関取の壁に阻まれ3場所で十両を去ることになったが、残りの3人は相次いで幕内に上がった。まず新入幕を果たしたのは経験豊富な元冠で、三羽烏に続く7人目の新入幕となった。続いて十両昇進後に怪我があってやや出遅れた鯨冠が幕内に上がり、その次に冠力が入幕を果たした。冠力は13勝2敗の十両優勝で幕内に上がり、元冠と鯨冠も優勝こそなかったが十両で12勝の好成績を残していたため、期待が高かった。残念ながら元冠は幕内では伸び悩み2場所で十両に陥落したが、鯨冠は新入幕の場所を勝ち越しで飾ることができた。この時期、冠馬と福冠は十両に陥落するなど成績が安定せず、八冠も成績は安定していたものの上位ではいまだに通用せず、大冠と浪冠は下位に低迷、受凌はベテランながら幕内ではじめて10勝するなど安定感はあったがまだ番付は低かった。こうした周囲の状況もあり、鯨冠は新入幕の場所は幕内中位で8勝という高いとは言えない成績ながら、入幕2場所目でいきなり部屋頭にまで上り詰めた。冠力もまた十両上位で優勝したことで一気に番付をあげ、2番目に高い番付に在位していた。
こうした状況の中ではじまった35年初場所では、冠力が先場所からの好調を維持して12勝3敗の好成績を残し、幕内の優勝決定戦に進出する、部屋で初めての力士となった。残念ながら優勝決定巴戦には敗れたが、部屋歴代で最も幕内最高優勝が近づいた瞬間であり、低迷期からの再興を超えて新たな境地へと踏み出した印象を与えた。続く春場所は、初場所で2度目の十両優勝を果たした小冠が遅咲きの新入幕を果たし、大冠との兄弟同時幕内を達成してそちらが話題の中心になったが、冠力と鯨冠も幕内上位で三役を目指していた。しかし冠力は前頭筆頭で7勝8敗、鯨冠は前頭2枚目で8勝7敗と、いずれもあとわずか1勝というところで三役昇進を逃した。それでも夏場所は東西の前頭筆頭として、春場所10勝で前頭2枚目まで番付をあげてきたベテランの受凌らとともに、引き続いて三役をうかがう場所となった。この場所11勝と実力を見せた冠力は、一気に関脇に昇進。受膽、大冠に続く、低迷期後の3人目の三役力士となった。一方の鯨冠はこの場所は6勝9敗に終わり、その後三役昇進のチャンスが訪れることは無かった。冠力は名古屋場所で8勝とし、受鯨以来12年ぶりとなる三役での勝ち越しを果たすと、続く秋場所でも勝ち越し、関脇在位を3場所に伸ばした。この間、負け越しが続き番付を落としていった鯨冠とは裏腹に、ベテランの受凌が名古屋場所で11勝の好成績をあげて東前頭筆頭まで番付をあげているほか、浪冠も十両での好成績ではじめて幕内上位に上がって勝ち越している。一方で前時代の実力者であった大冠は弟の小冠と揃って十両に陥落し、冠馬と福冠も十両と幕内の往復に終始、八冠は幕内中位を主戦場に活躍したがなかなか成績が上がらなかった。九州場所では冠力も5勝10敗の大敗に終わり、三役の地位を失った。
36年に入ると、上位で安定した成績を残していた受凌が冠力に代わって部屋頭になった(春場所・夏場所)。この時すでに仙人であったが、はじめての部屋頭である。部屋の低迷期の最中であった28年に十両に上がり、十両昇進はそこまで遅い方でもなかったが、十両ではなかなか成績が伸び悩んだ。それでも、幕下では勝ち越しを続け、6度目の十両昇進でようやく成績が安定し、十両在位28場所目にしてようやく新入幕を決めた、気迫の力士である。新入幕の時点ですでにベテランであったが、年齢を感じさせない内容で幕内でも10勝や11勝の好成績をあげ、東前頭筆頭まで上がったこともあった。初代親方時代の力士が部屋頭になったのはこれが最後で、32年の受膽以来およそ3年半ぶりのことであった。この時期には冠力も引き続き上位で安定した成績を残していたほか、冠馬が復活し、浪冠もまだ幕内に定着していた。一方で、八冠はやや低迷気味で、鯨冠は完全に低迷し、福冠も幕内では勝てなくなってきていた。夏場所ではさらに大冠が7場所ぶりに幕内に復帰し、新進気鋭の期待の若手力士・宙冠も新入幕を果たしていた。
その36年夏場所では、冠力、八冠、浪冠の3力士が連勝での好スタートを切った。冠力は三役から離れたあと上位でなかなか勝ち越しはできていなかったが成績は安定しており、実力をうかがわせた。八冠は春場所で2年ぶりに前頭の二桁の番付に落ちるなど、成績が低迷していたが、まだ年齢的な余裕があり、巻き返しが期待されていた。浪冠はもともと幕内ではなかなか通用せず十両との往復が目立った力士であったが、35年夏場所に十両上位での好成績があり、4度目の入幕を決めるとともに自己最高位を更新、その後は幕内上位でも1度勝ち越すなど成績が向上し、幕内にも定着しつつあった。十両優勝の経験もある夏場所は総じて成績が良かったが、幕内の地位で迎えるのは初めてのことであり、活躍が期待された。特にこの場所に向けて準備を蓄えてきた浪冠の活躍は期待されていたが、年齢的には既にベテランでもあり、また夏場所は十両での土俵が続いていたため幕内でどれだけの実力が出せるかは未知数であった。このため序盤の好発進は不安材料を打ち消す要素となった。冠力は中盤の上位戦で星を落として最終的に8勝7敗に終わるが、八冠と浪冠は上位戦などで3敗に後退するも、終盤まで好調を保ってきていた。12日目に優勝ラインが3敗まで下がり、13日目は八冠と浪冠がそろって3敗を守って優勝争いトップタイに残ったが、14日目に八冠が敗れて一歩出遅れた。千秋楽の時点で3敗力士は浪冠を含む3人であり、星1つの差で追う4敗力士も八冠を含め3名、いずれも直接対決はなく、この時点で最大6人の優勝決定戦の可能性もあった。先に八冠が土俵に上がって白星、自己最多の11勝4敗として優勝に望みをつないだ。ついで浪冠が登場し白星、12勝3敗に乗せた。この時点で八冠の優勝はなくなり、同時に昨年初場所の冠力以来部屋として2度目の優勝同点以上が確定した。ところが浪冠と優勝を争っていた力士がいずれも敗れたため、優勝決定戦を待たずに浪冠の優勝が決定した。部屋創設から20年あまり、初の幕内最高優勝であった。
賜杯の栄光とは裏腹に、苦戦した力士もいた。復調しつつあった冠馬は3勝12敗の大敗、番付が高く十両陥落は免れたが、厳しい結果となった。大冠に代わって部屋頭に上がり、一時は幕内上位に定着するなど、次代を担う力士としての期待も高かったのだが、2度の十両陥落はいずれも比較的高い番付まで上がってからの大敗が原因。再び幕内に定着しかけていたが、この場所の大敗で結局これまでと傾向が変わっていないとの印象を強くしてしまった。兄弟子である浪冠や、同じ三羽烏の八冠が大躍進を遂げ、三羽烏のもう1人の福冠も、この時は十両であったが久々の10勝とし、再び幕内中位へ戻った中でのことという状況も、よりこの厳しい結果を際立たせるものとなった。また前年には新時代を切り開くかに思われた鯨冠も同じく3勝12敗の成績に終わり、幕内から去ることとなってしまった。三役まであと一歩まで迫った頃からわずか一年でのこの低迷であった。新入幕の宙冠も、期待に反し4勝11敗と苦しみ、以後は幕内に復帰することも無かった。久々の幕内で迎えた大冠も7勝8敗と善戦むなしく負け越しに終わり、実力の衰えを感じさせたが、結局この場所限りで現役引退を決めた。引退前の最後に浪冠の優勝パレードの旗手も務めた。海冠と受膽は既に幕下に落ちており、前時代の終焉を感じさせる出来事となった。
名古屋場所では前場所の主役であった浪冠と八冠が、揃って東西の前頭筆頭に在位した。しかし浪冠は4勝11敗と苦しい結果に終わり、さらに秋場所も負け越すと、優勝からわずか2場所で早くも現役を引退してしまった。既に年齢的にもベテランの域であり、またもともと幕内での実力が高い方では無かった中で、部屋史上初の優勝の価値を守るものとも評価できるが、やはり早い引退であった。幕内最高優勝経験者ながら、三役に一度も上がることなく引退となった。八冠は名古屋場所で7勝とあと一歩で三役を逃し、秋場所でも引き続き西の前頭筆頭で迎えたが、この場所は大敗に終わってしまった。この頃は、受凌は年齢の限界で成績が下降し、福冠と鯨冠は幕内で勝てなくなり十両に低迷、さらに大冠と浪冠も相次いで引退してしまったことで、部屋の中核となる力士が次々と減ってしまった。幕内では中堅クラスの実力があった三羽烏のうちの残りの2人、八冠・冠馬と、夏場所以来幕内上位で勝ち越しを続けていた冠力が、残ったメンバーとして部屋の中核を担った。九州場所では冠力が部屋頭となったが、大敗してしまったため、37年初場所では八冠と冠馬が部屋の2トップとなった。八冠は前頭筆頭まで上がった実力の片鱗を見せ、36年九州場所で10勝として再び上位に返り咲いており、冠馬もまた夏場所での大敗から復活して3場所連続で勝ち越しており、37年初場所ではついに2年ぶりの幕内上位の番付となっていた。特に八冠と冠馬は幕内在位も37年前半に相次いで20場所を迎えており、すっかり幕内の常連であったが、これは部屋再興以降で初めての記録でもあった。このまま何事もなければこれら3力士が中堅として実力を保つかと思われたが、37年のうちに冠力と八冠は十両に陥落し、2度と幕内に返り咲くことは無かった。この状況の中で若手期待の星、琉冠が彗星のごとく番付を上げていき、新たな時代を創り上げるのである。
前の時代を引き継いだ三羽烏、新時代を開いた鯨冠と冠力が、いずれもパッとしない中で、ベテランの受凌や浪冠が部屋をリードする場面もあった。また、部屋全体として見た場合、唯一幕内最高優勝が絡んだ時代であった。2年という短い期間ながら、多彩な力士が活躍し、部屋全体としても大きな衰えは無かったが、この時代の終焉に際しては実力者が次々と陥落・引退したこともあり、部屋の勢力図は大きく様変わりした。前時代の部屋再興が昇華した一種の到達点であった。
2代親方の直弟子(その冠名から冠世代とも呼ばれる)のうち、まず幕内に上がったのは海冠、次に浪冠と大冠、そして福冠、冠馬、八冠の三羽烏であった。この間、もちろん多くの十両力士が誕生した。大冠・海冠・浪冠に続く4人目の関取となった綾冠、スピード出世の獅子冠・砲冠・吐冠、十両時代は三羽烏と並び称された実力者の苓冠、地味な冠翁、大冠の実弟で苦労人の小冠。ただ、獅子冠と砲冠は十両1場所で陥落、綾冠も十両には定着できず、吐冠も新十両時の怪我の影響で十両では思うような結果を残せなかった。三羽烏と同時期に活躍し期待値の高かった苓冠も、十両ではなかなか思うような結果は残せず、期待に反して十両在位はわずか4場所にとどまったし、冠翁もまた十両2場所目の怪我で幕下に陥落、十両復帰のためにかなり時間を食ってしまった。小冠は幕下時代の怪我のために出世が遅れ、十両に上がったときに既に現役の後半に差し掛かっていて、長い活躍はあまり期待できなかった。これが33年末までの状況であった。34年に入ってまず新十両を果たしたのが鯨冠と常冠であった。ついで怪我で苦戦した経験のある元冠、その後に冠力が新十両を果たした。常冠は関取の壁に阻まれ3場所で十両を去ることになったが、残りの3人は相次いで幕内に上がった。まず新入幕を果たしたのは経験豊富な元冠で、三羽烏に続く7人目の新入幕となった。続いて十両昇進後に怪我があってやや出遅れた鯨冠が幕内に上がり、その次に冠力が入幕を果たした。冠力は13勝2敗の十両優勝で幕内に上がり、元冠と鯨冠も優勝こそなかったが十両で12勝の好成績を残していたため、期待が高かった。残念ながら元冠は幕内では伸び悩み2場所で十両に陥落したが、鯨冠は新入幕の場所を勝ち越しで飾ることができた。この時期、冠馬と福冠は十両に陥落するなど成績が安定せず、八冠も成績は安定していたものの上位ではいまだに通用せず、大冠と浪冠は下位に低迷、受凌はベテランながら幕内ではじめて10勝するなど安定感はあったがまだ番付は低かった。こうした周囲の状況もあり、鯨冠は新入幕の場所は幕内中位で8勝という高いとは言えない成績ながら、入幕2場所目でいきなり部屋頭にまで上り詰めた。冠力もまた十両上位で優勝したことで一気に番付をあげ、2番目に高い番付に在位していた。
こうした状況の中ではじまった35年初場所では、冠力が先場所からの好調を維持して12勝3敗の好成績を残し、幕内の優勝決定戦に進出する、部屋で初めての力士となった。残念ながら優勝決定巴戦には敗れたが、部屋歴代で最も幕内最高優勝が近づいた瞬間であり、低迷期からの再興を超えて新たな境地へと踏み出した印象を与えた。続く春場所は、初場所で2度目の十両優勝を果たした小冠が遅咲きの新入幕を果たし、大冠との兄弟同時幕内を達成してそちらが話題の中心になったが、冠力と鯨冠も幕内上位で三役を目指していた。しかし冠力は前頭筆頭で7勝8敗、鯨冠は前頭2枚目で8勝7敗と、いずれもあとわずか1勝というところで三役昇進を逃した。それでも夏場所は東西の前頭筆頭として、春場所10勝で前頭2枚目まで番付をあげてきたベテランの受凌らとともに、引き続いて三役をうかがう場所となった。この場所11勝と実力を見せた冠力は、一気に関脇に昇進。受膽、大冠に続く、低迷期後の3人目の三役力士となった。一方の鯨冠はこの場所は6勝9敗に終わり、その後三役昇進のチャンスが訪れることは無かった。冠力は名古屋場所で8勝とし、受鯨以来12年ぶりとなる三役での勝ち越しを果たすと、続く秋場所でも勝ち越し、関脇在位を3場所に伸ばした。この間、負け越しが続き番付を落としていった鯨冠とは裏腹に、ベテランの受凌が名古屋場所で11勝の好成績をあげて東前頭筆頭まで番付をあげているほか、浪冠も十両での好成績ではじめて幕内上位に上がって勝ち越している。一方で前時代の実力者であった大冠は弟の小冠と揃って十両に陥落し、冠馬と福冠も十両と幕内の往復に終始、八冠は幕内中位を主戦場に活躍したがなかなか成績が上がらなかった。九州場所では冠力も5勝10敗の大敗に終わり、三役の地位を失った。
36年に入ると、上位で安定した成績を残していた受凌が冠力に代わって部屋頭になった(春場所・夏場所)。この時すでに仙人であったが、はじめての部屋頭である。部屋の低迷期の最中であった28年に十両に上がり、十両昇進はそこまで遅い方でもなかったが、十両ではなかなか成績が伸び悩んだ。それでも、幕下では勝ち越しを続け、6度目の十両昇進でようやく成績が安定し、十両在位28場所目にしてようやく新入幕を決めた、気迫の力士である。新入幕の時点ですでにベテランであったが、年齢を感じさせない内容で幕内でも10勝や11勝の好成績をあげ、東前頭筆頭まで上がったこともあった。初代親方時代の力士が部屋頭になったのはこれが最後で、32年の受膽以来およそ3年半ぶりのことであった。この時期には冠力も引き続き上位で安定した成績を残していたほか、冠馬が復活し、浪冠もまだ幕内に定着していた。一方で、八冠はやや低迷気味で、鯨冠は完全に低迷し、福冠も幕内では勝てなくなってきていた。夏場所ではさらに大冠が7場所ぶりに幕内に復帰し、新進気鋭の期待の若手力士・宙冠も新入幕を果たしていた。
その36年夏場所では、冠力、八冠、浪冠の3力士が連勝での好スタートを切った。冠力は三役から離れたあと上位でなかなか勝ち越しはできていなかったが成績は安定しており、実力をうかがわせた。八冠は春場所で2年ぶりに前頭の二桁の番付に落ちるなど、成績が低迷していたが、まだ年齢的な余裕があり、巻き返しが期待されていた。浪冠はもともと幕内ではなかなか通用せず十両との往復が目立った力士であったが、35年夏場所に十両上位での好成績があり、4度目の入幕を決めるとともに自己最高位を更新、その後は幕内上位でも1度勝ち越すなど成績が向上し、幕内にも定着しつつあった。十両優勝の経験もある夏場所は総じて成績が良かったが、幕内の地位で迎えるのは初めてのことであり、活躍が期待された。特にこの場所に向けて準備を蓄えてきた浪冠の活躍は期待されていたが、年齢的には既にベテランでもあり、また夏場所は十両での土俵が続いていたため幕内でどれだけの実力が出せるかは未知数であった。このため序盤の好発進は不安材料を打ち消す要素となった。冠力は中盤の上位戦で星を落として最終的に8勝7敗に終わるが、八冠と浪冠は上位戦などで3敗に後退するも、終盤まで好調を保ってきていた。12日目に優勝ラインが3敗まで下がり、13日目は八冠と浪冠がそろって3敗を守って優勝争いトップタイに残ったが、14日目に八冠が敗れて一歩出遅れた。千秋楽の時点で3敗力士は浪冠を含む3人であり、星1つの差で追う4敗力士も八冠を含め3名、いずれも直接対決はなく、この時点で最大6人の優勝決定戦の可能性もあった。先に八冠が土俵に上がって白星、自己最多の11勝4敗として優勝に望みをつないだ。ついで浪冠が登場し白星、12勝3敗に乗せた。この時点で八冠の優勝はなくなり、同時に昨年初場所の冠力以来部屋として2度目の優勝同点以上が確定した。ところが浪冠と優勝を争っていた力士がいずれも敗れたため、優勝決定戦を待たずに浪冠の優勝が決定した。部屋創設から20年あまり、初の幕内最高優勝であった。
賜杯の栄光とは裏腹に、苦戦した力士もいた。復調しつつあった冠馬は3勝12敗の大敗、番付が高く十両陥落は免れたが、厳しい結果となった。大冠に代わって部屋頭に上がり、一時は幕内上位に定着するなど、次代を担う力士としての期待も高かったのだが、2度の十両陥落はいずれも比較的高い番付まで上がってからの大敗が原因。再び幕内に定着しかけていたが、この場所の大敗で結局これまでと傾向が変わっていないとの印象を強くしてしまった。兄弟子である浪冠や、同じ三羽烏の八冠が大躍進を遂げ、三羽烏のもう1人の福冠も、この時は十両であったが久々の10勝とし、再び幕内中位へ戻った中でのことという状況も、よりこの厳しい結果を際立たせるものとなった。また前年には新時代を切り開くかに思われた鯨冠も同じく3勝12敗の成績に終わり、幕内から去ることとなってしまった。三役まであと一歩まで迫った頃からわずか一年でのこの低迷であった。新入幕の宙冠も、期待に反し4勝11敗と苦しみ、以後は幕内に復帰することも無かった。久々の幕内で迎えた大冠も7勝8敗と善戦むなしく負け越しに終わり、実力の衰えを感じさせたが、結局この場所限りで現役引退を決めた。引退前の最後に浪冠の優勝パレードの旗手も務めた。海冠と受膽は既に幕下に落ちており、前時代の終焉を感じさせる出来事となった。
名古屋場所では前場所の主役であった浪冠と八冠が、揃って東西の前頭筆頭に在位した。しかし浪冠は4勝11敗と苦しい結果に終わり、さらに秋場所も負け越すと、優勝からわずか2場所で早くも現役を引退してしまった。既に年齢的にもベテランの域であり、またもともと幕内での実力が高い方では無かった中で、部屋史上初の優勝の価値を守るものとも評価できるが、やはり早い引退であった。幕内最高優勝経験者ながら、三役に一度も上がることなく引退となった。八冠は名古屋場所で7勝とあと一歩で三役を逃し、秋場所でも引き続き西の前頭筆頭で迎えたが、この場所は大敗に終わってしまった。この頃は、受凌は年齢の限界で成績が下降し、福冠と鯨冠は幕内で勝てなくなり十両に低迷、さらに大冠と浪冠も相次いで引退してしまったことで、部屋の中核となる力士が次々と減ってしまった。幕内では中堅クラスの実力があった三羽烏のうちの残りの2人、八冠・冠馬と、夏場所以来幕内上位で勝ち越しを続けていた冠力が、残ったメンバーとして部屋の中核を担った。九州場所では冠力が部屋頭となったが、大敗してしまったため、37年初場所では八冠と冠馬が部屋の2トップとなった。八冠は前頭筆頭まで上がった実力の片鱗を見せ、36年九州場所で10勝として再び上位に返り咲いており、冠馬もまた夏場所での大敗から復活して3場所連続で勝ち越しており、37年初場所ではついに2年ぶりの幕内上位の番付となっていた。特に八冠と冠馬は幕内在位も37年前半に相次いで20場所を迎えており、すっかり幕内の常連であったが、これは部屋再興以降で初めての記録でもあった。このまま何事もなければこれら3力士が中堅として実力を保つかと思われたが、37年のうちに冠力と八冠は十両に陥落し、2度と幕内に返り咲くことは無かった。この状況の中で若手期待の星、琉冠が彗星のごとく番付を上げていき、新たな時代を創り上げるのである。
前の時代を引き継いだ三羽烏、新時代を開いた鯨冠と冠力が、いずれもパッとしない中で、ベテランの受凌や浪冠が部屋をリードする場面もあった。また、部屋全体として見た場合、唯一幕内最高優勝が絡んだ時代であった。2年という短い期間ながら、多彩な力士が活躍し、部屋全体としても大きな衰えは無かったが、この時代の終焉に際しては実力者が次々と陥落・引退したこともあり、部屋の勢力図は大きく様変わりした。前時代の部屋再興が昇華した一種の到達点であった。
第6期
琉冠、孔雀冠、錦冠、米冠の4力士が相次いで覇権を握った時代である。孔雀冠を除く3力士は三役まで昇り詰めたが、いずれも全盛期は極く短い間のみで、すぐに実力を落とした。琉冠と錦冠は若くして引退、米冠は長く土俵を務めたが全盛期の番付まで戻ることはできなかった。唯一平幕止まりの孔雀冠のみが幕内・十両に長く定着していた。
冠世代の力士の中では、スピード出世で幕内まで一気に上がる力士も少なく無かった。冠世代最初の幕内力士である海冠がまさにそうであったし、宙冠もまた幕内まで一気のスピードで上がってきた。八冠も、十両でやや伸び悩みがあったが、基本的にはスピード出世の部類に入る。ところがこの3力士はいずれも三役に上がることはなかった。この間に三役に上がったのは、受膽、大冠、冠力の3人で、つまり極めて幕下以下で出世が遅かったか、十両で長く伸び悩んだ力士であった。そうした傾向を覆したのが、この時代を彩った3人の三役力士、つまり、琉冠、錦冠そして米冠であった。琉冠と米冠はまさしくスピード三役の好例というべき存在であり、錦冠もやや遅かったが大局的にいえば十分早い出世であったのだ。この3力士はまた、幕下以下で怪我での全敗を経験した点も共通していたのだ。こうした観点から、部屋再興の時期とは異なる新たな育成メソッドが完成の目を見た時期として、この時期を評価することもできるだろう。
この3力士を軸に、順に見て行こう。まず上がってきてこの流れを作り上げたのは、琉冠である。部屋史上初の沖縄県出身者でもあるこの力士は、同学年の兄弟子・北冠と並んで入門当初から将来を期待された力士であった。もともと「りゅう」の音は部屋草創期の受龍に通じるもので、その音を受け継いだことにも期待の高さをうかがわせる。入門2場所目に怪我のため全敗があり、苦戦も予想されたが、そこからV字回復し序二段・三段目で全勝、その後は新幕下の場所を負け越したのみで、幕下優勝もあり、北冠を追い抜き直近では1学年上の宙冠らと並ぶ所要11場所での十両昇進を達成した。部屋歴代で彼以上のスピード出世をしている力士は全員が負け越しを経験せずに十両に上がっているため、負け越しを2度も経験し、1度は全敗という中では極めて異例の結果であった。ただ、直前のスピード出世経験者である宙冠は琉冠が新十両を決めた場所で新入幕ながら4勝11敗と大敗、結局その後は幕内に返り咲くことすら叶わなかったこともあり、琉冠の前途も決して安泰という訳ではなかった。また、琉冠に1場所遅れて十両に上がった北冠も、十両昇進時点で年齢的にもまだ若く琉冠以上に有望な状況であったが、怪我のため3勝12敗の大敗に終わり、十両に返り咲くことすらなく引退してしまっている。北冠はこの怪我が無ければ琉冠と並んで1つの時代を築いていた可能性も高く惜しまれる。しかし琉冠は新十両場所で優勝すると、その後も好成績を続けて一気に番付を上げていくことができた。琉冠が幕内に上がったころ、幕内に在位していたのは三羽烏の残り2人である冠馬、八冠と、この時点で現役唯一の関脇経験者の冠力で、それに加えて受凌や元冠といったベテランが十両と幕内を往復していた時期であった。琉冠は新入幕から2場所連続の二桁の好成績でたちまちこれらの力士を抜き去り、まだ若手ながら一気に幕内上位まで番付を上げた。一方、前述の幕内力士は冠馬を除く全員が十両に陥落し、しかも2度と幕内に返り咲くことがなかったため、幕内の実力がある力士は新鋭の孔雀冠を含む3人にまで減少していた。このように部屋全体として勢力が減退している情勢にもかかわらず、琉冠は幕内上位に定着すると11勝の好成績を残し、受龍に続く歴代2位のスピード出世で小結に昇進した。実力的にはやや劣るなかでワンチャンスを掴んでの昇進であった。冠世代の力士からは3人目の三役経験者である。しかし新小結の場所で負け越すと、以後は1度も幕内で勝ち越すことなく、翌年では十両に陥落しその翌年には引退してしまう。そのため琉冠が部屋の主力を担ったのは37年の僅か1年間に過ぎなかった。38年に入ると琉冠が低迷し、冠馬も十両に陥落するなど安定感に欠けたため、しばらくは遅咲きの新鋭・孔雀冠が部屋を率いたが、幕内上位で勝ち越せず三役昇進は果たせなかった。
琉冠の1学年下、つまり35年初土俵の力士たちにも、有望な力士は多かった。錦冠は受海以来のイスラエル出身力士であったし、ウクライナ出身の冠山も前評判は高かった。南冠もまた、同郷の浪冠が優勝一夜開けの会見で言及したことで知られていた。いずれも安定感はあったが、小幅の勝ち越しが多く、幕下にはすぐ定着したものの十両昇進は遅れた。この中で最も早く十両に上がったのは南冠であったが、十両昇進に時間がかかったこともあり、十両で思うような結果は残せず幕下に陥落となった。一方、錦冠は幕下でなかなか星が伸びなかったが、怪我で全敗し三段目に落ちたのを機に星が伸び、南冠に1場所遅れて十両に上がるとそのまま好成績を続けて一気に幕内に上がった。この間に十両優勝も経験している。冠山は結局幕下昇進後も星が伸びることがなく出世が遅れ、十両昇進すら危ぶまれる状況であったが、幕下上位で希少なチャンスを掴んでようやく十両昇進を遂げた。ただ、新十両の場所では錦冠に続く好成績は残せず勝ち越しがやっとで、その後は既に年齢も若くなかったこともあり大敗、僅か2場所で幕下に陥落した。このため、同時期に同じような出世を遂げてきた同学年の3人のうちで、十両昇進後も順調に出世できたのは錦冠ただ1人であった。孔雀冠がやや不調であったこともあり、錦冠は新入幕の時点で一気に部屋頭になっていた。38年の終盤の頃である。
39年には錦冠は関脇に昇進した。新入幕から勝ち越しを続けて労せず三役に昇進できたのは冠世代では初で、部屋の育成能力の安定が窺える。ただ、三役では勝ち越すことができず、以後は低迷した。琉冠が幕内から遠ざかり、錦冠の全盛期を支えた幕内力士は冠馬と孔雀冠であったが、孔雀冠は十両陥落などやや安定感に欠けた。錦冠の全盛期の最後に海冠が1場所だけ幕内に返り咲いたものの、年齢的な限界もあり幕内定着は叶わなかった。その海冠と入れ替わるように新入幕を果たした若手の赤冠が、39年終盤には部屋をリードする力士となった。琉冠・錦冠に続く若い力士の台頭で、三役ラッシュが続くかと思われたが、赤冠は上位に上がれず、40年に入ると孔雀冠が部屋頭に返り咲いた。
40年に新入幕を果たした若い米冠が、40年半ばに部屋頭に上がった。米冠もまた、出世は早いながら幕下で全敗経験がある。番付運にも恵まれ米冠も小結を1場所経験したが、実力及ばず5勝10敗と惨敗した。米冠は運に恵まれたという印象が強く、実力はあまり高く評価されない傾向が強いが、新入幕の場所で12勝3敗の好成績を残したことに関しては高く評価されても良いだろう。しかし琉冠、錦冠もそうだが、この時代の主役となった力士は若くして三役をつかみながら幕内で安定した成績を残すことなくすぐに番付を下げていくことが目立ち、そのこともあって個々の実力は高かったにもかかわらず部屋全体の勢力の安定や強化にはあまり寄与しなかったことは、厳しく評価されなければならないだろう。スピード出世力士を乗り換えていくこうした育成方針は、若手力士の育成がうまく続いている内は軌道に乗っているように見えるものの、持続可能性に乏しい戦術である。また、将来の指導者の育成という意味でも不健全な状態であると指摘できるだろう。
40年に入ると赤冠、米冠の37年初土俵コンビだけでなく、36年初土俵の黄冠、殿冠もやや遅れてだが幕内に上がってきた。十両にも37年初土俵組の埃冠が上がってきており、世代交代の色は色濃くなっていた。年上の錦冠と孔雀冠はすでに低迷し、36~37年入門の世代がほとんど部屋を席巻している情勢であった。そのような情勢の中で、40年最後の場所で部屋頭を務めたのは、ベテランの冠馬であった。長い安定感を生み出す強靭さがスピード出世の勢いを乗り越えたのである。
冠世代の力士の中では、スピード出世で幕内まで一気に上がる力士も少なく無かった。冠世代最初の幕内力士である海冠がまさにそうであったし、宙冠もまた幕内まで一気のスピードで上がってきた。八冠も、十両でやや伸び悩みがあったが、基本的にはスピード出世の部類に入る。ところがこの3力士はいずれも三役に上がることはなかった。この間に三役に上がったのは、受膽、大冠、冠力の3人で、つまり極めて幕下以下で出世が遅かったか、十両で長く伸び悩んだ力士であった。そうした傾向を覆したのが、この時代を彩った3人の三役力士、つまり、琉冠、錦冠そして米冠であった。琉冠と米冠はまさしくスピード三役の好例というべき存在であり、錦冠もやや遅かったが大局的にいえば十分早い出世であったのだ。この3力士はまた、幕下以下で怪我での全敗を経験した点も共通していたのだ。こうした観点から、部屋再興の時期とは異なる新たな育成メソッドが完成の目を見た時期として、この時期を評価することもできるだろう。
この3力士を軸に、順に見て行こう。まず上がってきてこの流れを作り上げたのは、琉冠である。部屋史上初の沖縄県出身者でもあるこの力士は、同学年の兄弟子・北冠と並んで入門当初から将来を期待された力士であった。もともと「りゅう」の音は部屋草創期の受龍に通じるもので、その音を受け継いだことにも期待の高さをうかがわせる。入門2場所目に怪我のため全敗があり、苦戦も予想されたが、そこからV字回復し序二段・三段目で全勝、その後は新幕下の場所を負け越したのみで、幕下優勝もあり、北冠を追い抜き直近では1学年上の宙冠らと並ぶ所要11場所での十両昇進を達成した。部屋歴代で彼以上のスピード出世をしている力士は全員が負け越しを経験せずに十両に上がっているため、負け越しを2度も経験し、1度は全敗という中では極めて異例の結果であった。ただ、直前のスピード出世経験者である宙冠は琉冠が新十両を決めた場所で新入幕ながら4勝11敗と大敗、結局その後は幕内に返り咲くことすら叶わなかったこともあり、琉冠の前途も決して安泰という訳ではなかった。また、琉冠に1場所遅れて十両に上がった北冠も、十両昇進時点で年齢的にもまだ若く琉冠以上に有望な状況であったが、怪我のため3勝12敗の大敗に終わり、十両に返り咲くことすらなく引退してしまっている。北冠はこの怪我が無ければ琉冠と並んで1つの時代を築いていた可能性も高く惜しまれる。しかし琉冠は新十両場所で優勝すると、その後も好成績を続けて一気に番付を上げていくことができた。琉冠が幕内に上がったころ、幕内に在位していたのは三羽烏の残り2人である冠馬、八冠と、この時点で現役唯一の関脇経験者の冠力で、それに加えて受凌や元冠といったベテランが十両と幕内を往復していた時期であった。琉冠は新入幕から2場所連続の二桁の好成績でたちまちこれらの力士を抜き去り、まだ若手ながら一気に幕内上位まで番付を上げた。一方、前述の幕内力士は冠馬を除く全員が十両に陥落し、しかも2度と幕内に返り咲くことがなかったため、幕内の実力がある力士は新鋭の孔雀冠を含む3人にまで減少していた。このように部屋全体として勢力が減退している情勢にもかかわらず、琉冠は幕内上位に定着すると11勝の好成績を残し、受龍に続く歴代2位のスピード出世で小結に昇進した。実力的にはやや劣るなかでワンチャンスを掴んでの昇進であった。冠世代の力士からは3人目の三役経験者である。しかし新小結の場所で負け越すと、以後は1度も幕内で勝ち越すことなく、翌年では十両に陥落しその翌年には引退してしまう。そのため琉冠が部屋の主力を担ったのは37年の僅か1年間に過ぎなかった。38年に入ると琉冠が低迷し、冠馬も十両に陥落するなど安定感に欠けたため、しばらくは遅咲きの新鋭・孔雀冠が部屋を率いたが、幕内上位で勝ち越せず三役昇進は果たせなかった。
琉冠の1学年下、つまり35年初土俵の力士たちにも、有望な力士は多かった。錦冠は受海以来のイスラエル出身力士であったし、ウクライナ出身の冠山も前評判は高かった。南冠もまた、同郷の浪冠が優勝一夜開けの会見で言及したことで知られていた。いずれも安定感はあったが、小幅の勝ち越しが多く、幕下にはすぐ定着したものの十両昇進は遅れた。この中で最も早く十両に上がったのは南冠であったが、十両昇進に時間がかかったこともあり、十両で思うような結果は残せず幕下に陥落となった。一方、錦冠は幕下でなかなか星が伸びなかったが、怪我で全敗し三段目に落ちたのを機に星が伸び、南冠に1場所遅れて十両に上がるとそのまま好成績を続けて一気に幕内に上がった。この間に十両優勝も経験している。冠山は結局幕下昇進後も星が伸びることがなく出世が遅れ、十両昇進すら危ぶまれる状況であったが、幕下上位で希少なチャンスを掴んでようやく十両昇進を遂げた。ただ、新十両の場所では錦冠に続く好成績は残せず勝ち越しがやっとで、その後は既に年齢も若くなかったこともあり大敗、僅か2場所で幕下に陥落した。このため、同時期に同じような出世を遂げてきた同学年の3人のうちで、十両昇進後も順調に出世できたのは錦冠ただ1人であった。孔雀冠がやや不調であったこともあり、錦冠は新入幕の時点で一気に部屋頭になっていた。38年の終盤の頃である。
39年には錦冠は関脇に昇進した。新入幕から勝ち越しを続けて労せず三役に昇進できたのは冠世代では初で、部屋の育成能力の安定が窺える。ただ、三役では勝ち越すことができず、以後は低迷した。琉冠が幕内から遠ざかり、錦冠の全盛期を支えた幕内力士は冠馬と孔雀冠であったが、孔雀冠は十両陥落などやや安定感に欠けた。錦冠の全盛期の最後に海冠が1場所だけ幕内に返り咲いたものの、年齢的な限界もあり幕内定着は叶わなかった。その海冠と入れ替わるように新入幕を果たした若手の赤冠が、39年終盤には部屋をリードする力士となった。琉冠・錦冠に続く若い力士の台頭で、三役ラッシュが続くかと思われたが、赤冠は上位に上がれず、40年に入ると孔雀冠が部屋頭に返り咲いた。
40年に新入幕を果たした若い米冠が、40年半ばに部屋頭に上がった。米冠もまた、出世は早いながら幕下で全敗経験がある。番付運にも恵まれ米冠も小結を1場所経験したが、実力及ばず5勝10敗と惨敗した。米冠は運に恵まれたという印象が強く、実力はあまり高く評価されない傾向が強いが、新入幕の場所で12勝3敗の好成績を残したことに関しては高く評価されても良いだろう。しかし琉冠、錦冠もそうだが、この時代の主役となった力士は若くして三役をつかみながら幕内で安定した成績を残すことなくすぐに番付を下げていくことが目立ち、そのこともあって個々の実力は高かったにもかかわらず部屋全体の勢力の安定や強化にはあまり寄与しなかったことは、厳しく評価されなければならないだろう。スピード出世力士を乗り換えていくこうした育成方針は、若手力士の育成がうまく続いている内は軌道に乗っているように見えるものの、持続可能性に乏しい戦術である。また、将来の指導者の育成という意味でも不健全な状態であると指摘できるだろう。
40年に入ると赤冠、米冠の37年初土俵コンビだけでなく、36年初土俵の黄冠、殿冠もやや遅れてだが幕内に上がってきた。十両にも37年初土俵組の埃冠が上がってきており、世代交代の色は色濃くなっていた。年上の錦冠と孔雀冠はすでに低迷し、36~37年入門の世代がほとんど部屋を席巻している情勢であった。そのような情勢の中で、40年最後の場所で部屋頭を務めたのは、ベテランの冠馬であった。長い安定感を生み出す強靭さがスピード出世の勢いを乗り越えたのである。
第7期
41年初場所では殿冠が部屋頭に在位した。同世代の力士と比較すれば目立たない存在であったが、堅実な成績で平幕上位まで番付をあげてきていた。また、ベテランの冠馬も約4年ぶりの平幕上位で、負け越しはしたものの7勝8敗と安定した実力を示していた。一方で前時代を彩った赤冠、孔雀冠、錦冠はいずれもこの場所で十両に陥落し、孔雀冠が1場所幕内に返り咲いたのみで、いずれも復活を果たすことなく番付を落としていくなど、時代の転換点を印象づける場所であった。若い米冠は三役からは離れたが依然幕内で安定した実力を維持しており、幕内は3力士に絞られた。これ以降はこの3力士と、さらに42年に入ってからは3代親方が育てた初の関取である気鋭の若手・金鷲が加わり、4力士が部屋の中心を担う時代が続いた。
とりわけベテランである冠馬の安定感が際立った。既に幕内在位は部屋歴代1位の記録となっていたが、この時期には再び幕内上位での力を取り戻していた。冠馬の経歴は低迷と復活の連続であり、この時期はいわば彼にとって3度目の全盛期であった。入幕2場所目の33年九州場所で西前頭筆頭まで番付をあげ、34年には部屋頭に就任し大冠から時代を引き継いだと思われたが、そこから2度の十両陥落と低迷。37年には2年半ぶりに平幕上位に返り咲き、一時期安定した成績を残したものの、38年には十両に陥落。既にこの時点で年齢的にはベテランの域であり、十両ではじめて9敗を喫するなど限界かと思われたが、そこから幕内復帰。2年ほど平幕中位・下位での土俵が続いていたが、40年九州場所でおよそ4年ぶりとなる平幕上位に返り咲いていたのであった。41年に入ってからも上位で2場所連続の8勝とし、特に春場所では自己最高位の半枚下の番付で勝ち越し、夏場所では入幕2場所目以来の西前頭筆頭へと返り咲いた。この場所は4勝11敗の大敗であったが、その半年後には再び平幕上位へと返り咲くなど、安定感は健在であった。一方、米冠も12勝という強烈な新入幕デビュー以降は、前頭一桁以上の番付を維持しており、安定感はあった。三役昇進を決めた場所以上の番付に戻ることは2度となく、思い出三役の印象は拭えないものの、幕内力士が減っていたこの時代をよく支えた。一方で殿冠は、平幕上位で勝ち越し部屋頭に就任して以降は、小幅の負け越しが続き、41年は年間で1度8勝での勝ち越しがあったのみと、幕内を維持する安定感はあったものの不調であった。
一方、十両では幕内未経験者は埃冠くらいで、次代を担う期待の力士は少なかったが、この埃冠といれかわる形で41年終盤に金鷲が新十両を果たした。入門から3年足らずのスピード出世である。さらに新十両の場所は11勝、十両2場所目では15戦全勝という活躍で、42年には新入幕を果たした。3代親方の直弟子からは初の幕内力士で、就任から4年足らずで幕内力士を育てたことになる。また3代親方自身は平幕二桁が最高であり、自身の最高位を追い抜く弟子を育てた。
こうした状況から42年中には金鷲が時代を担い、米冠や殿冠がそれを支えていくかに思われた。しかし、前年は低迷していた殿冠は42年に入って覚醒し、初場所では幕内で自身初の二桁勝利となる11勝を達成、夏場所でも平幕上位で9勝の成績を残すなど、全盛期を迎えた。一方で冠馬は年齢の限界もあり現役を引退、さらに金鷲と米冠も低迷し十両に陥落したため、42年後半には幕内力士が殿冠ただ1人となってしまった。さらに殿冠もここから不調に転じ、43年にはついに、30年以来13年ぶりに前頭一桁以上の番付の力士が不在となってしまった。
総じてこの時代は突き抜けた実力の力士が不在であったが、安定感のある平幕力士の活躍が目立った。金鷲の躍進は新時代の到来を予感させたが、一時的なものに終わってしまった。それでも三役で目立った活躍をするわけではないが平幕で長く安定を保つ力士の重要性が大いに認識された時代であり、その象徴的存在であった冠馬の引退後、部屋の勢力が一気に傾いたのもその証左であった。こうした平幕中心の時代というのはしかしながら極めて稀であり、三役の誕生しなかった時代というのは他に第3期と第11期があるのみであったが、いずれも幕内での安定した勢力を築くことはできなかった。強力なリーダーが誕生するまでの中継ぎの時代として、あくまで支える立場としての安定する平幕という見解もある。しかしいずれにせよ、幕内で安定できる力士というものは、ほとんどは時代の中心にならず目立つものではないとはいえ、部屋の勢力を支える極めて重要な役割を果たすものである。
とりわけベテランである冠馬の安定感が際立った。既に幕内在位は部屋歴代1位の記録となっていたが、この時期には再び幕内上位での力を取り戻していた。冠馬の経歴は低迷と復活の連続であり、この時期はいわば彼にとって3度目の全盛期であった。入幕2場所目の33年九州場所で西前頭筆頭まで番付をあげ、34年には部屋頭に就任し大冠から時代を引き継いだと思われたが、そこから2度の十両陥落と低迷。37年には2年半ぶりに平幕上位に返り咲き、一時期安定した成績を残したものの、38年には十両に陥落。既にこの時点で年齢的にはベテランの域であり、十両ではじめて9敗を喫するなど限界かと思われたが、そこから幕内復帰。2年ほど平幕中位・下位での土俵が続いていたが、40年九州場所でおよそ4年ぶりとなる平幕上位に返り咲いていたのであった。41年に入ってからも上位で2場所連続の8勝とし、特に春場所では自己最高位の半枚下の番付で勝ち越し、夏場所では入幕2場所目以来の西前頭筆頭へと返り咲いた。この場所は4勝11敗の大敗であったが、その半年後には再び平幕上位へと返り咲くなど、安定感は健在であった。一方、米冠も12勝という強烈な新入幕デビュー以降は、前頭一桁以上の番付を維持しており、安定感はあった。三役昇進を決めた場所以上の番付に戻ることは2度となく、思い出三役の印象は拭えないものの、幕内力士が減っていたこの時代をよく支えた。一方で殿冠は、平幕上位で勝ち越し部屋頭に就任して以降は、小幅の負け越しが続き、41年は年間で1度8勝での勝ち越しがあったのみと、幕内を維持する安定感はあったものの不調であった。
一方、十両では幕内未経験者は埃冠くらいで、次代を担う期待の力士は少なかったが、この埃冠といれかわる形で41年終盤に金鷲が新十両を果たした。入門から3年足らずのスピード出世である。さらに新十両の場所は11勝、十両2場所目では15戦全勝という活躍で、42年には新入幕を果たした。3代親方の直弟子からは初の幕内力士で、就任から4年足らずで幕内力士を育てたことになる。また3代親方自身は平幕二桁が最高であり、自身の最高位を追い抜く弟子を育てた。
こうした状況から42年中には金鷲が時代を担い、米冠や殿冠がそれを支えていくかに思われた。しかし、前年は低迷していた殿冠は42年に入って覚醒し、初場所では幕内で自身初の二桁勝利となる11勝を達成、夏場所でも平幕上位で9勝の成績を残すなど、全盛期を迎えた。一方で冠馬は年齢の限界もあり現役を引退、さらに金鷲と米冠も低迷し十両に陥落したため、42年後半には幕内力士が殿冠ただ1人となってしまった。さらに殿冠もここから不調に転じ、43年にはついに、30年以来13年ぶりに前頭一桁以上の番付の力士が不在となってしまった。
総じてこの時代は突き抜けた実力の力士が不在であったが、安定感のある平幕力士の活躍が目立った。金鷲の躍進は新時代の到来を予感させたが、一時的なものに終わってしまった。それでも三役で目立った活躍をするわけではないが平幕で長く安定を保つ力士の重要性が大いに認識された時代であり、その象徴的存在であった冠馬の引退後、部屋の勢力が一気に傾いたのもその証左であった。こうした平幕中心の時代というのはしかしながら極めて稀であり、三役の誕生しなかった時代というのは他に第3期と第11期があるのみであったが、いずれも幕内での安定した勢力を築くことはできなかった。強力なリーダーが誕生するまでの中継ぎの時代として、あくまで支える立場としての安定する平幕という見解もある。しかしいずれにせよ、幕内で安定できる力士というものは、ほとんどは時代の中心にならず目立つものではないとはいえ、部屋の勢力を支える極めて重要な役割を果たすものである。
第8期
この時代は金鸛鵲、金熊、そして金真鶴へと、実力者の世代交代が比較的うまくいき、部屋の勢力が極めて回復した時代であった。しかし金真鶴が三役昇進に失敗し低迷したことにより、部屋全体が均衡を失い、この時代の終わりとともに再び部屋は平幕一桁以上の力士を失ってしまう。
順を追って見ていくこととしよう。前時代からの流れを変えたのは金鸛鵲であった。
順を追って見ていくこととしよう。前時代からの流れを変えたのは金鸛鵲であった。
特色
関取の多さ
関取数の比較的多い相撲部屋として知られ、5~10名程度の関取がコンスタントに在位している。ただし、その多くは十両力士という傾向があり、関取経験者の多い部屋ながら三役経験者はごくわずかで三役在位場所数も短いなど、中堅クラスの実力といえる。 また、比較的関取在位の短い力士も多く、三役や幕内を経験した力士でも関取在位の通算が20場所前後というのは珍しくない。関取在位が40~50場所を超えるような極めて関取在位の長い力士も数名存在するが、どちらかというと稀である。創設から30年以上を経過しているが、幕内最高優勝力士を1名輩出していることを除けば、大関候補すら20年近く輩出できておらず、ここ最近は2~3年に一度三役を1~3場所務める力士を出している程度である。しかし、50年に入って金朱鷺が部屋史上最多となる三役在位10場所を達成した(うち関脇6場所、小結4場所で、いずれも部屋史上最多)。さらに、52年には22年以来じつに30年ぶりに三役力士が2人同時に在位するという記録を実現している(大冠川と大開国、いずれも関脇)。47年夏場所から53年名古屋場所にかけ38場所連続で前頭5枚目以上の力士を擁するなど安定した勢力を保っていたが、有力力士の引退が重なり同年秋場所では30年初場所以来23年8ヶ月に亘って守った幕内から遠ざかることとなった。
2代親方の弟子までは、75人のうち関取に上がれなかったのは1名のみと、安定して関取を輩出していた。一方で近年は関取の育成にやや苦慮している。それでも最終的に3代親方時代の弟子も20人中18人が関取に上がった。
2代親方の弟子までは、75人のうち関取に上がれなかったのは1名のみと、安定して関取を輩出していた。一方で近年は関取の育成にやや苦慮している。それでも最終的に3代親方時代の弟子も20人中18人が関取に上がった。
引退
自主引退制度を利用して引退した力士が未だに居らず、もっぱら強制引退頼みである。そのこともあり、仙人まで現役を続ける力士も少なくない。
第一世代の受傑は18年にわたり土俵をつとめ、長らくこれが部屋の最長記録であったが、47年には冠翁がこれを追い抜いて部屋史上1位の在位記録を更新した。冠翁は最終的に22年2ヶ月にわたって土俵をつとめた。また、金鹿も59年には受傑の在位記録を抜いたため、受傑は現時点で部屋歴代3位となっている。
過去に受凌、海冠、冠馬、冠翁、金鹿、肝膽、大馬松、馬児、2代受對、葡萄馬、氷鹿の9人が仙人で関取を務めている。うち、仙人で幕内を務めたのは受凌、冠馬、金鹿、肝膽、葡萄馬、氷鹿の5人である。このうち、金鹿・肝膽の2人は仙人に入った時点での番付は十両であった。仙人で再入幕を決めたのはこの2名と受凌の3人で、このうち複数回達成したのは金鹿(3度)のみである。また、仙人で再十両を決めたのは冠翁、金鹿、2代受對の3人で、このうち金鹿は2度、2代受對は3度達成している。再入幕・再十両いずれも、陥落後1場所以外で達成した経験があるのは長らく金鹿のみであり、一度目の再入幕と再十両はいずれも1年ぶりの記録であったが、再十両についてはのちに2代受對が2度達成した(それぞれ4場所ぶり及び35場所ぶり)。仙人になった後に幕下に陥落し、そこから幕内に復帰したのは金鹿が初で、実に3年4ヶ月ぶりの幕内復帰となった(なお、直前の幕内在位も仙人の時。さらに、その後に3年半ぶりの幕内復帰も果たしている。)。また、2代受對は仙人で十両に在位したのち、序二段まで陥落し、その後5年10ヶ月ぶりに十両へ復帰するという記録を残した。仙人の力士が幕内で勝ち越したのは受凌と金鹿の2名で、2度達成したのは金鹿のみ。仙人の力士が十両で勝ち越したのは受凌、海冠、冠翁、金鹿、肝膽、2代受對で、複数回の勝ち越しの経験があるのは冠翁(2回)と金鹿(18回)のみ、金鹿と2代受對以外はいずれも8勝での勝ち越しのみを経験している。仙人で二桁勝利を達成したのは金鹿のみで、5度達成し、うち12勝と11勝が各1度ずつである。
また、米冠・大米冠は、兄弟力士が揃って仙人まで現役を続けた初の事例となった。さらに大馬山・大馬松も兄弟揃って仙人になり、兄弟力士が仙人で揃って在位したのは初となった。
のちの2代親方となる受冠が幕下陥落が決定的になったタイミングで引退したこともあって、実力を残したまま幕内や十両の地位で引退するのが半ば部屋の伝統となっている。部屋で10年ぶりの関脇となった上位経験豊富な大冠、幕内最高優勝経験者の浪冠、関取在位59場所・幕内在位49場所の大記録を樹立した冠馬は、いずれも幕内の地位で引退している。3代親方の弟子でも金鸛鵲や金熊のように十両の地位で引退する力士がいる。ただし、過去には三役経験者で幕下陥落後も長く土俵を務める例は少なくなかった。初期の関脇である受龍・受具・受印・受鯨の4人はいずれも幕下陥落後も比較的長く現役を続けている(初期世代以外では大泥冠が幕下で長く現役を務めた)。受印、受膽、米冠、冠湖、受對のように、三段目や序二段にまで番付を落とす三役経験者もいる。とはいえ、幕内経験者で序ノ口まで番付を落としたのは長らく受王が唯一であった。49年11月場所で金獅子が部屋で2人目の序ノ口に陥落した元幕内力士となった。受王は序ノ口で負け越し引退したが、金獅子は序ノ口で勝ち越して現役を続行し、のち幕下まで復帰した。61年春場所には受對が三役経験者として初めて序ノ口に陥落した。
仙人まで現役を続けた力士は以下である。
第一世代の受傑は18年にわたり土俵をつとめ、長らくこれが部屋の最長記録であったが、47年には冠翁がこれを追い抜いて部屋史上1位の在位記録を更新した。冠翁は最終的に22年2ヶ月にわたって土俵をつとめた。また、金鹿も59年には受傑の在位記録を抜いたため、受傑は現時点で部屋歴代3位となっている。
過去に受凌、海冠、冠馬、冠翁、金鹿、肝膽、大馬松、馬児、2代受對、葡萄馬、氷鹿の9人が仙人で関取を務めている。うち、仙人で幕内を務めたのは受凌、冠馬、金鹿、肝膽、葡萄馬、氷鹿の5人である。このうち、金鹿・肝膽の2人は仙人に入った時点での番付は十両であった。仙人で再入幕を決めたのはこの2名と受凌の3人で、このうち複数回達成したのは金鹿(3度)のみである。また、仙人で再十両を決めたのは冠翁、金鹿、2代受對の3人で、このうち金鹿は2度、2代受對は3度達成している。再入幕・再十両いずれも、陥落後1場所以外で達成した経験があるのは長らく金鹿のみであり、一度目の再入幕と再十両はいずれも1年ぶりの記録であったが、再十両についてはのちに2代受對が2度達成した(それぞれ4場所ぶり及び35場所ぶり)。仙人になった後に幕下に陥落し、そこから幕内に復帰したのは金鹿が初で、実に3年4ヶ月ぶりの幕内復帰となった(なお、直前の幕内在位も仙人の時。さらに、その後に3年半ぶりの幕内復帰も果たしている。)。また、2代受對は仙人で十両に在位したのち、序二段まで陥落し、その後5年10ヶ月ぶりに十両へ復帰するという記録を残した。仙人の力士が幕内で勝ち越したのは受凌と金鹿の2名で、2度達成したのは金鹿のみ。仙人の力士が十両で勝ち越したのは受凌、海冠、冠翁、金鹿、肝膽、2代受對で、複数回の勝ち越しの経験があるのは冠翁(2回)と金鹿(18回)のみ、金鹿と2代受對以外はいずれも8勝での勝ち越しのみを経験している。仙人で二桁勝利を達成したのは金鹿のみで、5度達成し、うち12勝と11勝が各1度ずつである。
また、米冠・大米冠は、兄弟力士が揃って仙人まで現役を続けた初の事例となった。さらに大馬山・大馬松も兄弟揃って仙人になり、兄弟力士が仙人で揃って在位したのは初となった。
のちの2代親方となる受冠が幕下陥落が決定的になったタイミングで引退したこともあって、実力を残したまま幕内や十両の地位で引退するのが半ば部屋の伝統となっている。部屋で10年ぶりの関脇となった上位経験豊富な大冠、幕内最高優勝経験者の浪冠、関取在位59場所・幕内在位49場所の大記録を樹立した冠馬は、いずれも幕内の地位で引退している。3代親方の弟子でも金鸛鵲や金熊のように十両の地位で引退する力士がいる。ただし、過去には三役経験者で幕下陥落後も長く土俵を務める例は少なくなかった。初期の関脇である受龍・受具・受印・受鯨の4人はいずれも幕下陥落後も比較的長く現役を続けている(初期世代以外では大泥冠が幕下で長く現役を務めた)。受印、受膽、米冠、冠湖、受對のように、三段目や序二段にまで番付を落とす三役経験者もいる。とはいえ、幕内経験者で序ノ口まで番付を落としたのは長らく受王が唯一であった。49年11月場所で金獅子が部屋で2人目の序ノ口に陥落した元幕内力士となった。受王は序ノ口で負け越し引退したが、金獅子は序ノ口で勝ち越して現役を続行し、のち幕下まで復帰した。61年春場所には受對が三役経験者として初めて序ノ口に陥落した。
仙人まで現役を続けた力士は以下である。
- 受安(16.1入門、28.9仙人入り、28.9引退)
- 受劍(16.1入門、28.11仙人入り、29.5引退)
- 受香(同上、29.9引退)
- 受具(同上、28.11引退)
- 受印(同上、29.3引退)
- 受巖(同上、31.1引退)
- 受傑(同上、33.11引退)
- 受王(同上、29.3引退)
- 受金(23.1入門、34.11仙人入り、35.5引退)
- 受凌(24.5入門、35.9仙人入り、38.7引退)
- 受膽(26.7入門、39.3仙人入り、39.3引退)
- 受若(26.9入門、39.3仙人入り、41.11引退)
- 海冠(27.7入門、39.9仙人入り、43.1引退)
- 小冠(27.9入門、40.1仙人入り、42.3引退)
- 冠馬(28.11入門、42.1仙人入り、42.5引退)
- 冠翁(29.3入門、42.1仙人入り、51.3引退)
- 常冠(同上、42.11引退)
- 殿冠(36.9入門、48.3仙人入り、51.3引退)
- 米冠(37.5入門、48.5仙人入り、48.9引退)
- 金八犬(39.1入門、49.5仙人入り、49.9引退)
- 金蝦蟇(39.7入門、50.1仙人入り、54.7引退)
- 金真鶴(41.9入門、52.7仙人入り、53.9引退)
- 金鹿(41.11入門、52.7仙人入り、60.9引退)
- 肝膽(42.11入門、54.9仙人入り、56.7引退)
- 大馬山(45.11入門、59.3仙人入り、63.1引退)
- 大米冠(46.5入門、60.3仙人入り、64.1引退)
- 大馬松(47.1入門、60.11仙人入り、61.3引退)
- 大冠縢(48.9入門、62.7仙人入り、64.1引退)
- 大餓者髑髏(49.9入門、63.3仙人入り、65.5引退)
- 馬児(51.1入門、64.3仙人入り、現役)
- 2代受對(51.3入門、64.7仙人入り、現役)
- 馬匝(同上、65.5引退)
- 時乃扉(53.3入門、66.1仙人入り、現役)
- 青島馬(53.5入門、66.5仙人入り、現役)
- 葡萄馬(53.7入門、66.5仙人入り、66.5引退)
- 朱鷺巨燈
- 膽伊良湖 68.9仙人入り
縁遠い記録
序ノ口優勝
部屋としての歴史が長いにもかかわらず、40年代以前に序ノ口優勝を達成した力士は僅か2名しか居なかった。受雷(24年九州場所)と金比婆権(39年夏場所)である。このうち、新序ノ口で優勝したのは金比婆権のみである。しかし、50年代に入ると、朱鷺師子亰(54年初場所)、膽伊良湖(55年夏場所)、三馬(55年名古屋場所)と序ノ口優勝力士が相次いで誕生した(いずれも新序ノ口での優勝)。新序ノ口以外では、59年春場所で水馬が優勝している。60年代以降は、61年夏場所で馬松が新序ノ口で、63年春場所で光冠龍が、65年初場所で氷鹿がいずれも新序ノ口以外で、それぞれ優勝した。67年九州場所では元十両の金西城が序ノ口優勝したが、これは関取経験者では初の記録となった。69年名古屋場所でも元幕内の水馬が序ノ口優勝、2度目の序ノ口優勝は部屋初の記録となった。
三役復帰
三役経験者は少なく無いにもかかわらず、三役復帰を果たした力士は稀であり、ほとんどの力士が三役から陥落して以降は平幕以下のまま引退に至っている。長らく、三役復帰を経験したことのある部屋の力士は第一世代の小結・受越(22九州新・24春再)のみであった。しかし、40年代後半に入り、小結・大泥冠(47九州新・48春再)とのちの関脇・金朱鷺(48秋新・49初再)が相次いで三役復帰を経験している。この2例についてはいずれも1場所での三役復帰である。49年初場所で金朱鷺が再三役場所で9勝をあげ、三役復帰経験のある部屋の力士のなかで初めての三役での勝ち越し経験者となるとともに、関脇への昇進も果たした。また、金朱鷺は小結に陥落後再び勝ち越して関脇に復帰しているが、関脇経験者が小結以下に陥落後に関脇に復帰したのは受具以来である。さらに、50年夏場所では部屋史上初となる2度目の三役復帰を達成した。
三役での二桁白星
部屋草創期の関脇経験者(受龍、受具、受印、受鯨)はいずれも三役での二桁白星を経験していたが、23年初場所の受鯨を最後に、部屋力士の三役での二桁勝利は途絶えていた。57年秋場所で受對が34年8ヶ月ぶりに三役で二桁白星を達成した。さらに60年代には馬児、超魔神も三役での二桁白星を達成している。三役で複数回の二桁白星を経験したのは受龍(3回)と馬児(2回)のみである。対照的な事例として、金朱鷺は三役を10場所務め、うち6場所で勝ち越した(いずれも部屋歴代最多)が、二桁白星は一度も無かった。
その他の記録
序ノ口への陥落
関取経験者で序ノ口に陥落したのは、受勝、受王、獅子冠、砲冠、金童子、金獅子、紫馬、大餓者髑髏、受對、大冠縢、金西城、碧川、水馬の13名である(うち幕内経験者は受王と金獅子、受對、大冠縢、碧川、水馬の6名で、三役経験者は受對のみ)。このうち、受勝、受王、碧川は序ノ口で引退している。一方、砲冠、金童子、紫馬、受對の4名(うち幕内経験者・三役経験者はいずれも受對のみ)は十両復帰を達成しており、このうち金童子は十両復帰後に新入幕を達成した。また、残りの獅子冠、金獅子、大餓者髑髏、大冠縢も幕下まで番付を戻している。
連続全敗記録
幕下以下では、大魔神(52初~夏)と無人青(65名~九)が、3場所連続の全敗を記録している。なお、両力士とも、その後に復帰して十両昇進を果たしている。
離島出身者の多さ
入門力士の中では離島出身の力士の多さが目立つ。とりわけ2代親方時代以降は顕著であり、2代親方の弟子の5人に1人、3代親方の弟子の4人に1人は離島出身であった。離島出身の力士の中でははじめて、大冠が4代親方に就任しているが、初の離島出身親方にしては直弟子で離島出身なのは僅か1割に止まった。また、6代親方である金朱鷺も離島出身者であったが、その在位中に離島出身者の入門は無かった。
これまでの離島出身の力士は以下である(括弧内は出身自治体)。
これまでの離島出身の力士は以下である(括弧内は出身自治体)。
- 礼文島(北海道礼文郡礼文町) 北冠
- 父島(東京都小笠原村) 大冠、小冠、太冠、無人青
- 青ヶ島(東京都青ヶ島村) 青島馬
- 八丈島(東京都八丈町) 金飛魚
- 佐渡島(新潟県佐渡市) 受國、金朱鷺(初代)、金朱鷺(2代)
- 淡路島(兵庫県淡路市) 波祖奈
- 大崎上島(広島県豊田郡大崎上島町) 船馬
- 直島(香川県香川郡直島町) 海冠
- 対馬(長崎県対馬市) 受對(初代)、受對(2代)
- 壱岐島(長崎県壱岐市) 大冠壱
- 下島(熊本県天草郡苓北町) 苓冠(初代)、苓冠(2代)、大苓冠
- 獅子島(鹿児島県出水郡長島町) 金獅子
- 中之島(鹿児島県鹿児島郡十島村) 膽吐喝喇
- 宝島(鹿児島県鹿児島郡十島村) 葡萄宝
- 喜界島(鹿児島県大島郡喜界町) 喜界馬
- 沖縄本島(沖縄県那覇市) 琉冠、琉膽
イスラエルとの関係
初代親方が親イスラエルの立場であったこともあり、イスラエルとの関係の深い部屋であり、これまでに受海と錦冠という2人のイスラエル出身力士を輩出している。海外ではほかにモンゴル、インド、タイからも2名の力士が入門しているが、インド出身の米冠と大米冠は兄弟であり、モンゴル出身の金鷲とタイ出身の大泥冠は少数派の集団の出身であるなど、系統だったつながりがあるとは言い難い。
出身地ごとの特色
神奈川県
部屋の所在する都道府県であり、地域のイベントなどにも参加しているにもかかわらず、神奈川県出身の力士は非常に少ない。受燈(25年入門)から金真鶴(41年入門)まで16年間にわたって神奈川県出身力士の入門がなかった。
第一世代唯一の神奈川県出身力士であった受香は十両1場所(19年春場所)のみで幕下に陥落。ついで入門した受燈は幕下上位に長く在位しながらなかなか十両に上がれず、入門から11年後の36年名古屋場所でようやく十両に昇進し、17年ぶりに部屋の神奈川県出身の関取が復活した。受燈は十両を9場所務めたが出世の遅さもあり十両5枚目が最高であった。受燈の引退後3年ほど神奈川県出身の力士の不在が続いたが、金真鶴が41年に入門し不在が解消され、45年には大冠川も入門し、16年ぶりに神奈川県出身の力士が複数所属することとなった。金真鶴は45年に十両昇進を果たすと2場所連続優勝で一気に十両を通過し、部屋初の神奈川県出身幕内力士となった。同年中に東前頭筆頭まで番付をあげたが負け越し、三役昇進は叶わなかった。さらに49年名古屋場所で大冠川が十両に昇進している。この大冠川は50年春場所で新入幕を果たし、部屋歴代2人目の神奈川出身幕内力士となった。その後、一時は十両に陥落し低迷したが、52年初場所で十両優勝を果たして幕内に復帰すると、同年夏場所では幕内で12勝3敗の好成績を達成した。これは、部屋歴代の幕内での最高成績のタイ記録である。また、部屋の神奈川県出身力士が幕内で二桁の白星をあげたのもこれが初めてであった。さらに、名古屋場所では西前頭2枚目という高地位ながら11勝4敗の成績を残し、部屋の神奈川県出身の力士として初めての三役・関脇に昇進した。
53年には国研親方経由で時乃扉が入門した。神奈川出身の力士が3名同時に在位するのは部屋史上初。また、部屋で初めての交流枠の力士ともなった。
第一世代唯一の神奈川県出身力士であった受香は十両1場所(19年春場所)のみで幕下に陥落。ついで入門した受燈は幕下上位に長く在位しながらなかなか十両に上がれず、入門から11年後の36年名古屋場所でようやく十両に昇進し、17年ぶりに部屋の神奈川県出身の関取が復活した。受燈は十両を9場所務めたが出世の遅さもあり十両5枚目が最高であった。受燈の引退後3年ほど神奈川県出身の力士の不在が続いたが、金真鶴が41年に入門し不在が解消され、45年には大冠川も入門し、16年ぶりに神奈川県出身の力士が複数所属することとなった。金真鶴は45年に十両昇進を果たすと2場所連続優勝で一気に十両を通過し、部屋初の神奈川県出身幕内力士となった。同年中に東前頭筆頭まで番付をあげたが負け越し、三役昇進は叶わなかった。さらに49年名古屋場所で大冠川が十両に昇進している。この大冠川は50年春場所で新入幕を果たし、部屋歴代2人目の神奈川出身幕内力士となった。その後、一時は十両に陥落し低迷したが、52年初場所で十両優勝を果たして幕内に復帰すると、同年夏場所では幕内で12勝3敗の好成績を達成した。これは、部屋歴代の幕内での最高成績のタイ記録である。また、部屋の神奈川県出身力士が幕内で二桁の白星をあげたのもこれが初めてであった。さらに、名古屋場所では西前頭2枚目という高地位ながら11勝4敗の成績を残し、部屋の神奈川県出身の力士として初めての三役・関脇に昇進した。
53年には国研親方経由で時乃扉が入門した。神奈川出身の力士が3名同時に在位するのは部屋史上初。また、部屋で初めての交流枠の力士ともなった。
東京都
2代親方となった受冠は東京都出身の力士であり、東京都出身の弟子を多くとっていた。2代親方時代の弟子のうち5人に1人は東京出身の力士であった。その前後の世代でも東京出身の力士は少なくなく、部屋創設から30年で11人の東京出身の力士が入門している。東京出身力士の中では大冠が関脇まであがったほか、受冠・鯨冠・八冠は前頭筆頭、受哲も前頭2枚目まであがっており、宙冠と小冠を含めると7人の幕内力士が誕生している。これまでの入門者の内訳を見ると、東京23区出身者とそれ以外がおよそ半々の割合である。
いっぽうで同じ東京都出身の大冠が4代親方となって以降は東京都出身力士の獲得に苦労している。45年初場所で金栗鼠と金飛魚が引退したことで、部屋創設以来はじめて東京都出身の力士が不在となった。47年秋場所で4代親方の直弟子で初の東京都出身力士となる。太冠が入門し、この不在は2年半で解消された。しかし、その後49年秋場所に至るまでの4代親方の在位期間の中で新たな東京都出身の力士が入門することはなく、彼の直弟子のうち東京都出身の力士はわずか1名にとどまった。ようやく53年夏場所で青島馬が入門し、太冠以来の東京都からの入門者となったが、この間実に5年以上の間隔があった。さらに、その次の東京出身者である無人青入門したのは59年九州場所と、6年以上の間隔があるなど、東京出身者の入門は減少の一途を辿っている。また、島嶼部以外の東京都出身者は15年以上入門していない。
いっぽうで同じ東京都出身の大冠が4代親方となって以降は東京都出身力士の獲得に苦労している。45年初場所で金栗鼠と金飛魚が引退したことで、部屋創設以来はじめて東京都出身の力士が不在となった。47年秋場所で4代親方の直弟子で初の東京都出身力士となる。太冠が入門し、この不在は2年半で解消された。しかし、その後49年秋場所に至るまでの4代親方の在位期間の中で新たな東京都出身の力士が入門することはなく、彼の直弟子のうち東京都出身の力士はわずか1名にとどまった。ようやく53年夏場所で青島馬が入門し、太冠以来の東京都からの入門者となったが、この間実に5年以上の間隔があった。さらに、その次の東京出身者である無人青入門したのは59年九州場所と、6年以上の間隔があるなど、東京出身者の入門は減少の一途を辿っている。また、島嶼部以外の東京都出身者は15年以上入門していない。
埼玉県
入門力士数は少ないが、スロー出世の名関脇・受具、現役在位18年の受傑、幕内経験の豊富な殿冠など、印象に残る個性派力士を多く輩出している。この3人はいずれも仙人まで土俵を務めており、息の長い力士という点が共通している。50年代に入ると、平幕上位経験豊富な大冠瀞や、関取在位の長い時大殿、そして不屈の十両復帰と当時の部屋最スロー入幕で知られる鉄大宮と、埼玉出身の実力派力士が次々台頭した。このうち時大殿は殿冠の実弟であり、部屋3組目の兄弟関取である。55年には時大殿が関取在位28場所に達し、兄の殿冠と合わせて部屋史上初の兄弟揃っての年寄名跡襲名条件達成となった。
54年初場所付で御殿部屋が創設され、埼玉県川越市に居を構えた。親方は埼玉県出身の殿冠である。
54年初場所付で御殿部屋が創設され、埼玉県川越市に居を構えた。親方は埼玉県出身の殿冠である。
千葉県
部屋創設時には3人の力士が所属しており、部屋の最大勢力であった。この3人はいずれも流山市出身で、連れ立って入門した。リーダー格でもあった受山は十両止まりながら親方の娘婿であり、部屋継承の噂もあったが、結局実現せず、ほか2人も協会には残らなかった。その後は長期に渡って千葉県出身の力士の不在が続いたが、金八犬の入門により10年ぶりに千葉県出身力士が復活した。金八犬は館山市出身であり、過去の3人との繋がりはない。50年代には馬匝が入門し、55年初場所には金八犬以来10年ぶりの部屋の千葉県出身の関取となった。馬匝は初の匝瑳市出身の力士であり、やはり過去の所属力士と系統的なつながりがあるわけではない。また、部屋の歴史の中でも印象に残る力士が多かった割に、幕内経験者は長らく受劍しか居らず、幕内で勝ち越したのも幕内上位に上がったのも馬匝が初めてであった。
千葉県出身力士の特徴として部屋関係者からの評価が総じて高いことがあげられ、金八犬までの所属力士の全員が協会に残る打診を受けているが、結局協会に残った者は居ない。
54年創設の馬蹄部屋は、55年秋場所付で千葉県匝瑳市に拠点を移した。
千葉県出身力士の特徴として部屋関係者からの評価が総じて高いことがあげられ、金八犬までの所属力士の全員が協会に残る打診を受けているが、結局協会に残った者は居ない。
54年創設の馬蹄部屋は、55年秋場所付で千葉県匝瑳市に拠点を移した。
茨城県
地味な力士が多い。受寧は第一世代で最も十両昇進の遅い力士であったが、新十両では全勝して幕内まで上がった。常冠は関取在位は3場所に終わったが仙人まで長く土俵を務めた。金蝦蟇も十両在位は長いが幕内に定着したのはかなり後になってからであった。金蝦蟇の引退後に入門した茨城県出身力士は2代・金蝦蟇を名乗ったが、初代との血縁関係はない。
青森県
伝統的に部屋の一大勢力の地位を占め続けてきた。第一世代からは受王が21場所の長きにわたって幕内をつとめ、前頭2枚目まで番付を上げた。続く浪冠は部屋初の幕内最高優勝となる平幕優勝を達成し、前頭筆頭まで番付を上げた。冠翁は怪我に悩み十両止まりであったが、仙人になってからも十両に上がり、また132場所(前相撲除く)という部屋歴代一位の現役在位を記録している。このほか南冠と金鮪も十両に上がっている。実力派の力士が多い傾向があるが、三役経験者は輩出していない。長らく部屋の一大勢力であったが、冠翁の引退により青森出身の現役力士は不在となった。
秋田県
スピード出世のあと幕下で長く苦しんだ受雪、幕内経験の豊富な孔雀冠と印象的な力士がおり、部屋の一大勢力との印象を受けるが、実際には過去の入門者は長くこの2人のみであった。それでも同じく実力派の力士の多い青森、福島と並んで部屋の東北御三家と並び称され、東北勢の強さの一例として論ぜられることが多い。
その後、50年代に入り大八殿と交流枠の希時殿が入門し、再び勢力を増した。両者とも入門時から有望視されており、秋田勢の復権が期待されている。60年代には希時殿の紹介で交流枠の大藤殿が入門した。
その後、50年代に入り大八殿と交流枠の希時殿が入門し、再び勢力を増した。両者とも入門時から有望視されており、秋田勢の復権が期待されている。60年代には希時殿の紹介で交流枠の大藤殿が入門した。
福島県
はじめて入門した福島県出身の力士は受心であった。入門当初は出世の早い力士であったが、幕下で伸び悩み、十両在位も短命に終わった。26年に引退し、その後は一時的に福島県出身の力士は断絶していた。
28年に入門した冠馬は、部屋2人目の福島県出身力士であった。幕内で長く活躍し、幕内在位49場所・関取在位59場所という部屋歴代1位の大記録を樹立した名力士である。彼の活躍もあって、同郷の力士が相次いで入門してきた。金馬、大馬山、大馬松である。金馬は出世は遅かったが晩年になって前頭3枚目まで上がるなど実力のある力士であった。さらに大馬山・大馬松も金馬以上の遅咲きながらいずれも関取に上がり、部屋2組目の兄弟同時関取を達成している。なお、冠馬と大馬松はいずれも仙人関取を達成しているが、同一出身地から複数の力士が仙人関取を達成するのは部屋史上初。また、大馬山と大馬松は仙人力士として兄弟同時座位を達成している。
福島県出身の力士は過去に6人いるが、受心は会津若松市の、冠馬以降の6人は相馬市の出身であり、この間の関係はない。相馬市出身の4力士はいずれも「馬」の字を四股名に含んでいる。冠馬以来、部屋の一大勢力にのし上がった福島勢だが、冠馬・金馬と幕内上位経験者は輩出しているものの三役はまだ出ていない。また、特に冠馬以降の福島県出身の幕内力士はいずれも新入幕の場所で大きな活躍を果たしている(冠馬は平幕中位で10勝、金馬・大馬松はいずれも平幕下位で11勝をあげている)。このうち冠馬、金馬はいずれもこれが唯一の幕内での二桁白星となった。一方で大馬松はその2場所後に再び2桁10勝を挙げ、福島勢でははじめて幕内で複数回の二桁勝利を経験した力士となった。さらに、新入幕の4年後には再び11勝をあげており、古参力士ながら自己最高位を大きく更新した。
49年には冠馬が部屋の5代親方に就任し、初の福島県出身の親方となった。53年には親方の座を降りるが、54年には馬蹄部屋を創設した。60年には奔馬が馬蹄部屋に入門し、冠馬の直弟子として初の福島県相馬市出身力士となった。
28年に入門した冠馬は、部屋2人目の福島県出身力士であった。幕内で長く活躍し、幕内在位49場所・関取在位59場所という部屋歴代1位の大記録を樹立した名力士である。彼の活躍もあって、同郷の力士が相次いで入門してきた。金馬、大馬山、大馬松である。金馬は出世は遅かったが晩年になって前頭3枚目まで上がるなど実力のある力士であった。さらに大馬山・大馬松も金馬以上の遅咲きながらいずれも関取に上がり、部屋2組目の兄弟同時関取を達成している。なお、冠馬と大馬松はいずれも仙人関取を達成しているが、同一出身地から複数の力士が仙人関取を達成するのは部屋史上初。また、大馬山と大馬松は仙人力士として兄弟同時座位を達成している。
福島県出身の力士は過去に6人いるが、受心は会津若松市の、冠馬以降の6人は相馬市の出身であり、この間の関係はない。相馬市出身の4力士はいずれも「馬」の字を四股名に含んでいる。冠馬以来、部屋の一大勢力にのし上がった福島勢だが、冠馬・金馬と幕内上位経験者は輩出しているものの三役はまだ出ていない。また、特に冠馬以降の福島県出身の幕内力士はいずれも新入幕の場所で大きな活躍を果たしている(冠馬は平幕中位で10勝、金馬・大馬松はいずれも平幕下位で11勝をあげている)。このうち冠馬、金馬はいずれもこれが唯一の幕内での二桁白星となった。一方で大馬松はその2場所後に再び2桁10勝を挙げ、福島勢でははじめて幕内で複数回の二桁勝利を経験した力士となった。さらに、新入幕の4年後には再び11勝をあげており、古参力士ながら自己最高位を大きく更新した。
49年には冠馬が部屋の5代親方に就任し、初の福島県出身の親方となった。53年には親方の座を降りるが、54年には馬蹄部屋を創設した。60年には奔馬が馬蹄部屋に入門し、冠馬の直弟子として初の福島県相馬市出身力士となった。
新潟県
佐渡市出身の2力士がいる。第一世代では受國が関取を28場所務め、前頭6枚目まで上がった。受國は極めて引退が早く、またその後は長く新潟県出身の力士は誕生していなかった。43年に金朱鷺が入門し、19年ぶりに新潟県出身の部屋の力士が復活した。金朱鷺は新潟県出身の力士としては部屋ではじめて関脇まで上がり、さらに部屋歴代単独1位となる三役在位10場所や関脇在位6場所、小結在位4場所、幕内連続在位38場所の記録を樹立した、部屋歴代きっての名力士である。初代親方の意向もあり佐渡市との関係性は部屋でも伝統的に重視されているため佐渡市出身の力士は2名いるが、まだ越後地域の力士は誕生していない。
静岡県
部屋初の静岡県出身力士は元冠である。怪我のため関取昇進が危ぶまれる時期もあったが、苦節6年でようやく十両・幕内に昇進した。幕内には通算3場所在位したがいずれも7勝8敗とあと一歩での負け越しに終わっている。
元冠の引退後7年にわたって静岡県出身の力士は不在であったが、46年に大開国が入門し不在が解消された。大開国は同年中に三段目優勝を果たし、部屋の静岡県勢初の各段優勝となった。さらに52年には小結、ついで関脇に昇進。東海地方からは受鯨(岐阜)以来、部屋で2人目の三役力士となった。
58年には交流枠から超魔神が入門。早いうちから部屋の有望株として期待を背負っていたが、果たして65年に関脇に昇進した。
元冠の引退後7年にわたって静岡県出身の力士は不在であったが、46年に大開国が入門し不在が解消された。大開国は同年中に三段目優勝を果たし、部屋の静岡県勢初の各段優勝となった。さらに52年には小結、ついで関脇に昇進。東海地方からは受鯨(岐阜)以来、部屋で2人目の三役力士となった。
58年には交流枠から超魔神が入門。早いうちから部屋の有望株として期待を背負っていたが、果たして65年に関脇に昇進した。
愛知県
48年デビューの大同冠が最初の入門力士で、部屋創設から30年以上経ってようやく愛知県出身の力士が誕生したことになる。55年には膽伊良湖、三馬と愛知県出身の力士が相次いで誕生し、連続で新序ノ口での序ノ口優勝を達成したが、これは部屋史上初の快挙で、愛知県勢の躍進に期待がもたれる。大同冠が何度も十両昇進を逃すなか、58年には膽伊良湖が愛知勢初の十両に上がったが、3場所で幕下に陥落となった。60年には大同冠が部屋最スロー71場所での十両昇進を果たしたが1場所で引退した。
岐阜県
受繼、受鯨、金狒狒と3人の幕内力士を輩出しているが、存在感がない。
京都府
綾冠と大魔神がおり、いずれも十両在位が長いことで知られる。大魔神は幕内経験もある。
大阪府
5人の三役力士を輩出している部屋の最強派閥である。コンスタントに実力派の力士を輩出しており、受越と金熊と葡萄馬が小結に、冠力と朱鷺巨燈が関脇に上がっている。ただし、まだ東西の正関脇は出ていない。冠力と朱鷺巨燈はまた幕内の優勝決定戦に進出した経験もある(いずれも新入幕場所という共通点がある)。このほか赤冠、金鹿、大冠池、金童子、大冠縢、川青麻も幕内に上がっており、このうち赤冠、金鹿、大冠池、大冠縢はいずれも幕内上位の経験がある。出身地はばらばらで、市町村単位での地域閥はない。
初期の大阪出身力士の特色として、本名の一部を四股名に取り入れている者が多かったが、赤冠以降はその伝統は無くなっている。
吐冠、赤冠、金童子、大冠池のように、入門から2年前後で十両に昇進するスピード出世の力士が多いことも特色である。但し、朱鷺巨燈を除く三役経験のある4力士はいずれも遅咲きの部類に入る。金童子もまた幕内に上がったのは晩年であった。
52年には金鹿が部屋史上5人目の仙人関取を達成しているが、部屋の大阪勢で仙人まで現役を続けたのはこれが初めてである。56年には金鹿は部屋史上4人目かつ部屋の大阪勢からは初の関取在位50場所達成者ともなった。60年に引退した時点で関取在位は76場所に達していた。また、幕内座位も30場所を経験しており、当時は部屋歴代5位かつ大阪出身者の中では単独1位の記録となった。その後、60年代に葡萄馬が幕内在位43場所を達成し、部屋歴代2位の記録を樹立したことで、大阪出身者としての幕内在位記録を塗り替えた。また、関取在位は52場所と、大阪勢で2人目の関取在位50場所達成者にもなったほか、仙人関取も経験している。
過去に12人の力士が入門しているが、近畿地方で3人以上の力士が入門した都道府県は唯一である。また、金熊は金世代、朱鷺巨燈は朱鷺世代の、それぞれ一番弟子であり、複数世代の一番弟子となった唯一の出身地である。7代親方までは全員、直弟子に大阪出身の力士がいる。
初期の大阪出身力士の特色として、本名の一部を四股名に取り入れている者が多かったが、赤冠以降はその伝統は無くなっている。
吐冠、赤冠、金童子、大冠池のように、入門から2年前後で十両に昇進するスピード出世の力士が多いことも特色である。但し、朱鷺巨燈を除く三役経験のある4力士はいずれも遅咲きの部類に入る。金童子もまた幕内に上がったのは晩年であった。
52年には金鹿が部屋史上5人目の仙人関取を達成しているが、部屋の大阪勢で仙人まで現役を続けたのはこれが初めてである。56年には金鹿は部屋史上4人目かつ部屋の大阪勢からは初の関取在位50場所達成者ともなった。60年に引退した時点で関取在位は76場所に達していた。また、幕内座位も30場所を経験しており、当時は部屋歴代5位かつ大阪出身者の中では単独1位の記録となった。その後、60年代に葡萄馬が幕内在位43場所を達成し、部屋歴代2位の記録を樹立したことで、大阪出身者としての幕内在位記録を塗り替えた。また、関取在位は52場所と、大阪勢で2人目の関取在位50場所達成者にもなったほか、仙人関取も経験している。
過去に12人の力士が入門しているが、近畿地方で3人以上の力士が入門した都道府県は唯一である。また、金熊は金世代、朱鷺巨燈は朱鷺世代の、それぞれ一番弟子であり、複数世代の一番弟子となった唯一の出身地である。7代親方までは全員、直弟子に大阪出身の力士がいる。
兵庫県
ともにソップの幕内力士として活躍した受若と金鸛鵲がいる。入門者2名のみで全員が幕内に上がったのは、国内では現時点で新潟県と兵庫県のみである(海外ではイスラエルとタイがある)。
島根県
第一世代では受安と受喬という2人の力士がいて、比較的おおきな勢力であった。この2人はともに安来市の出身である。その後は長らく島根県出身力士が断絶した状態が続いており、現在まで解消されていない。受安は若者頭として協会に残り地元の後輩のスカウトにも力を入れたが果たせなかった。まだ石見・隠岐の両地域の出身者は入門していない。中国地方では山口県以外からは入門者がいたが、複数人の入門者がいたのは長らく島根県のみであり、そもそも中国地方自体が部屋の中では稀少な存在といえる。ちなみに、隣接する四国からの入門者も2名にとどまっている。
岡山県
受鹽は期待された大器であったが関取昇進を果たせぬまま若くして引退。その後は長く岡山県出身の力士は誕生しなかったが、50年代に入り馬児が入門。極めて出世は遅かったが40場所かけて十両に昇進、岡山勢で初の関取となった。また、中国地方で関取が誕生していないのは入門者がいない山口のみとなった。さらに馬児は60年初場所で新三役を達成、部屋の中国地方出身力士では初の三役力士となった。部屋史上2例目となる三役での2場所連続の2桁白星や部屋史上初の三役連続座位7場所を達成している。
広島県
序ノ口優勝の勢いそのまま、若くして関取にあがり、幕内で12勝をあげるなど活躍したが、低迷も引退も早かった、金比婆権の鮮烈な印象が残る。その後、船馬が広島勢2人目の力士として、地味ながら堅実な活躍をした。いずれも幕内上位の経験はあるが、金比婆権は2枚目、船馬は筆頭止まりと、あと一歩三役には届かなかった。
福岡県
初期の一大勢力であり、初代親方時代に入門した4人の力士が活躍した。ただし、幕内を長く務めた受武を除く3力士は十両止まりであり、いまいち存在感は薄い。
その後は長く福岡出身の力士が不在であったが、47年に入って相次いで福岡出身の力士が入門してきた(大宰府と大門司)。受天の引退から9年ぶりのことであった。大宰府は51年に引退したが、入れ替わるように紫馬が入門したため、福岡勢の減少は避けられた。
55年秋場所には紫馬が受雷以来実に22年ぶりとなる部屋の福岡県出身の関取となった。さらにそのちょうど一年後には大門司が十両に昇進したが、幕内に上がることなく引退した。大門司の引退と入れ替わるように水馬が入門したため、福岡勢の減少は避けられた。大門司引退の3年後である60年初場所に紫馬が十両復帰を果たし、再び福岡の関取を復活させた。同年九州場所で3度目の十両昇進、4年ぶりに部屋の福岡出身関取が地元に凱旋する形となった。その後に紫馬は十両に定着したが61年夏場所限りで引退、しかし同年秋場所で水馬が新十両を果たし、福岡出身の関取をすぐ復活させた。ただし、福岡出身力士は紫馬の引退により水馬1名のみとなっている。67年九州場所で金印が入門し、久々に福岡出身力士が複数に戻った。
その後は長く福岡出身の力士が不在であったが、47年に入って相次いで福岡出身の力士が入門してきた(大宰府と大門司)。受天の引退から9年ぶりのことであった。大宰府は51年に引退したが、入れ替わるように紫馬が入門したため、福岡勢の減少は避けられた。
55年秋場所には紫馬が受雷以来実に22年ぶりとなる部屋の福岡県出身の関取となった。さらにそのちょうど一年後には大門司が十両に昇進したが、幕内に上がることなく引退した。大門司の引退と入れ替わるように水馬が入門したため、福岡勢の減少は避けられた。大門司引退の3年後である60年初場所に紫馬が十両復帰を果たし、再び福岡の関取を復活させた。同年九州場所で3度目の十両昇進、4年ぶりに部屋の福岡出身関取が地元に凱旋する形となった。その後に紫馬は十両に定着したが61年夏場所限りで引退、しかし同年秋場所で水馬が新十両を果たし、福岡出身の関取をすぐ復活させた。ただし、福岡出身力士は紫馬の引退により水馬1名のみとなっている。67年九州場所で金印が入門し、久々に福岡出身力士が複数に戻った。
長崎県
対馬出身の受對父子、壱岐出身の大冠壱と、離島出身者が目立つ。いずれも関取を経験している。初代受對は極めて遅咲きながら十両を長く務め安定した成績を残したが、幕内には上がれなかった。それでも、怪我を乗り越えて下位からの奮起で十両に上がったことや、十両陥落後も幕下上位で極めて安定した成績を残し十両復帰も果たしたことなどは評価に値する、隠れた名力士である。大冠壱もやや出世は遅かったが無事に十両に上がると、2度の十両優勝を経て部屋の長崎県出身者で初の幕内力士になり、西前頭筆頭まで番付を上げた。2代受對は初代受對の実子であるが、親子力士は部屋史上初の組み合わせであり、のち部屋初の親子関取を達成した。さらに2代受對は部屋の長崎勢から初めて三役・関脇に昇進した力士となった。
熊本県
受濱と苓冠の2力士がいるが、いずれも十両止まりであった。九州からでは、過去に入門者がいない佐賀県と大分県を除けば、熊本県と長崎県のみが幕内力士を輩出していない。関取を複数輩出している都道府県で幕内力士が1人もいないのは、現時点で熊本県のみである(かつては神奈川県もそうであった)。苓冠の引退後はしばらく出身力士が不在となっていたが、53年になってその実子である2代苓冠が入門し、部屋2組目の親子力士となっている。2代苓冠は熊本勢ではじめて幕内にあがったが、幕内在位は1場所のみで、十両での土俵が長くなっている。さらに60年には実弟の大苓冠が入門。
宮崎県
初期には受巖、受車、受鬼と年齢の異なる3力士が相次いで入門し一大勢力となっていたが、その後は断絶している。この3力士は先輩後輩関係で関係性は深く、故郷で共同でちゃんこ屋を営んでいる。
鹿児島県
第一世代では受烈と受壽の2力士がいた。28年にはこの両力士が相次いで引退し、その後は長く鹿児島県出身の力士は不在であった。3代親方時代の41年から42年にかけて膽吐喝喇、金獅子、肝膽と、同県出身の力士が3名、相次いで入門した。現在では部屋の一大勢力となっている。長らく受烈、金獅子の前頭6枚目が最高で、幕内上位の力士は誕生していなかったが、49年5月場所で肝膽がはじめて前頭5枚目に上がり、のちに前頭3枚目まで最高位を更新している。関取在位についても、受烈と肝膽の22場所が長らく最長であったが、52年には肝膽が関取在位30場所を達成している(同時に部屋の鹿児島県出身者で初の年寄名跡襲名条件達成者となった)。56年に肝膽が引退して以降は再び鹿児島出身の力士が不在となっていたが、60年に喜界馬が入門した。
沖縄県
琉冠がスピード出世で三役まで上がった。あとを追って琉膽が入門し、こちらも出世は早かったが幕下筆頭で跳ね返され、十両に上がらないまま引退した。
タイ
受印と大泥冠が入門し、いずれも三役に上がっている。三役力士を複数名輩出した出身地は他に大阪があるのみで、稀有な例といえる。両力士とも三役を複数場所務めている。
インド
三役経験者の米冠と、その実弟である大米冠の兄弟力士が入門している。50年夏場所で大米冠が十両に昇進し、大冠・小冠につぐ2組目の兄弟関取となった(この時点で米冠は既に引退しており兄弟同時関取ではない)。
共同統治
受藏部屋の独特な運営方式の通称。2代親方時代、3代親方時代に見られた。
2代親方時代
親方の受冠と現役時代に関係が深く切磋琢磨してきた若者頭の受安の関係は、事実上の共同統治と称された。初代親方は部屋を受冠に譲るにあたり、一番弟子であり最も信頼していた受安に受冠を支えるように伝えており、肝煎りで若者頭に就任させた。関取在位が25場所と親方には届かなかったものの、有事の場合には部屋付きの受印らを差し置いて受安に部屋を任せるように言い残すほどであった。受冠は引退が早かったこともあり稽古場で胸を出すのは受安の役割で、部屋の運営に関しても受安が受冠を支える割合は大きかった。しかし受安は立場を弁えて受冠の補佐役としての役割に徹し、内弟子なども作らなかった。また、受冠の退職に際してはこれと運命を共にし、特例で部屋を継承するようなこともなかった。
なお、部屋付き親方を務めていた受印は初代親方とも距離があり、受金や受膽など自分を慕う力士を集めて独自派を形成、事実上の別部屋のようであった。二重権力と称されたが、受印は部屋に居住せず部屋の運営にも基本的に関わらなかったため、その存在の大きさや部屋に与えた影響にもかかわらず共同統治とは称されない。
なお、部屋付き親方を務めていた受印は初代親方とも距離があり、受金や受膽など自分を慕う力士を集めて独自派を形成、事実上の別部屋のようであった。二重権力と称されたが、受印は部屋に居住せず部屋の運営にも基本的に関わらなかったため、その存在の大きさや部屋に与えた影響にもかかわらず共同統治とは称されない。
3代親方時代
初代親方の意向で親方に就任した受金は幕内経験に乏しく部屋をまとめ切るのには困難があった。彼を慕う弟弟子の受膽が部屋付き親方として彼を支え、他の部屋付き親方を差し置いて部屋の運営に大きな影響力を持った。過去の受安の役割を引き継いだ形ではあるが、気の強い受膽の性格もあって部屋付き年寄の枠を超えるような振る舞いが目立ち、部屋に親方が2人いるとまで言われた。ついには独立するわけでもないのに4人の内弟子をつくった。受金と受膽の深い関係性もあり受金もこれには抵抗がなかったが、他の部屋付き親方や部屋関係者の中にはこれを快く思わない者もいた。世話人の受雪もまた曲者で、陰ながら部屋の運営に影響力を及ぼし、人脈を活かして多様なビジネスなどに手を広げたが、事実上の共同統治で運営責任の所在が曖昧なことも手伝って監督が及んでいなかった。結果的に部屋の不祥事が生じ、受金と受膽は揃って部屋の運営から離されることとなった。
4代親方時代
不祥事のあとを受けて親方になった大冠のもとでは、部屋の改革の意味合いもあり、共同統治体制は廃止された。若者頭の小冠は大冠の側近ではあったが協会との連絡役や秘書としての役割に止まり、部屋運営や弟子育成への影響力は限られていた。その他の部屋付き年寄でも、浪冠や冠馬のように力士の育成や部屋の運営に大きく関わる者はいたが、責任者としての役割は親方である大冠に統一され、役割は明確に差別化され、大冠のもとで他の協会員がそれを支える形となり、共同統治とよばれるような第2権力は生じなかった。また、2代親方時代の伝統を重んじる大冠の意向で内弟子は認められず、冠馬の同郷の後輩のように部屋付き親方と関係の深い力士が入門しても、あくまで他の力士と同じ待遇で扱われ、必ず親方である大冠の四股名に因んだ命名がされた。受膽はこれに不満を持ち、それが一因となって受金とともに協会を退職するに至ったと言われている。
大冠やその後継者に指名されている冠馬は統率力や運営能力に優れていると評されるが、それ以降の世代では親方として十分な力量を発揮できるか不安視される力士も少なくなく、共同統治が何らかの形で復活する可能性も指摘されている。この懸念を払拭する目的もあり、早期の後継指名による次期親方の求心力の確保が課題となり、大冠が冠馬に部屋を禅譲するにあたっては冠馬が次期親方として当時現役であった金朱鷺を指名し、大冠もそれを追認した(いわゆる冠馬裁定)。これを受け、部屋の2大後継者候補であった錦冠と金鸛鵲は、それぞれの側近であった冠山と金熊とともに、協会を退職した。
大冠やその後継者に指名されている冠馬は統率力や運営能力に優れていると評されるが、それ以降の世代では親方として十分な力量を発揮できるか不安視される力士も少なくなく、共同統治が何らかの形で復活する可能性も指摘されている。この懸念を払拭する目的もあり、早期の後継指名による次期親方の求心力の確保が課題となり、大冠が冠馬に部屋を禅譲するにあたっては冠馬が次期親方として当時現役であった金朱鷺を指名し、大冠もそれを追認した(いわゆる冠馬裁定)。これを受け、部屋の2大後継者候補であった錦冠と金鸛鵲は、それぞれの側近であった冠山と金熊とともに、協会を退職した。
5代親方時代
大冠から禅譲された冠馬は、早くから後継指名を受けていたことや本人の指導力もあり、求心的な存在であった。加えて、冠馬裁定で15歳も年少の現役力士である金朱鷺を早くに後継指名したことなども影響し、部屋付きの協会員が大量に引退したこともあり、冠馬に全権が集中せざるをえない状況にもなった。先代親方の大冠は、冠馬の運営に過度な影響力を与えることを懸念して、元親方としては異例ながら受雙の名跡を経ずに一般の名跡を襲名するなど形式的にも特別な存在たるまいと努めており、また小冠もそれに倣ったほか、浪冠も運営については淡白であったため、継承の時点において共同統治の可能性は完全に無かった。
6代親方時代
杏子部屋
54年初場所付で三代馬蹄(元幕内・冠馬、受藏部屋5代親方)が10名の力士を引き連れて設立した。創設時の所在地は神奈川県大和市で、49年まで受藏部屋が使用していた私設を使用していた。55年秋場所以降は千葉県匝瑳市に、62年初場所以降は千葉県流山市に、それぞれ移転。
世話人
大馬山一虎(元東十両三枚目、福島)
御殿部屋
54年初場所付で三代御殿(元幕内・殿冠)が設立した。所在地は三代御殿の出身地でもある埼玉県川越市である。設立当初の所属力士は三代御殿の実弟である時大殿のみであり、兄弟2人のみの小規模な部屋であった。
梯梧部屋
56年初場所付で四代大弐(元関脇・大冠、受藏部屋4代親方)が設立した。当初の所在地は神奈川県大和市の旧私設である。
56年限りで四代大弐が退職し、部屋付きの二代梯梧(元幕内・大冠大)が部屋を継承、梯梧部屋と改称した。また、部屋の所在地は群馬県前橋市に移った。60年11月場所後閉鎖も、63年初場所付で再興。
56年限りで四代大弐が退職し、部屋付きの二代梯梧(元幕内・大冠大)が部屋を継承、梯梧部屋と改称した。また、部屋の所在地は群馬県前橋市に移った。60年11月場所後閉鎖も、63年初場所付で再興。
砂塵部屋
57年初場所付で大弐部屋付きであった初代砂塵(元小結・大泥冠)が設立した。所在地は神奈川県海老名市。60年11月場所後閉鎖。
親方
初代:砂塵隆砲(元東小結・大泥冠、タイ)
芫花部屋
57年初場所付で四代芫花(元幕内・肝膽)が3名の力士を引き連れて独立した。所在地は神奈川県横須賀市。58年名古屋場所後閉鎖。
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